Vol.22 - 帝国データバンク史料館

TEIKOKU DATABANK Historical Museum
帝国データバンク史料館だより [ミューズ ]
温故知人
自費出版する歴史学者
︾ー 始 ま る ー
河内良弘さん
4万語収録の大辞典を編纂、
消滅危惧言語・満州語を
残し、
伝える
03
︽逸品解題
事業所のあった街をたずねて ∼高山篇∼
3
22
Vol.
2014.3
1928(昭和 3)年生まれ。東洋史学者。専攻は満州学、女真史。
天理大学教授を経て京都大学教授。
京都大学東南アジア研究センター協議員會協議員や史学研究会理事長を歴任。
主著に「金王朝の成立とその国家構造」
(岩波書店)や「満州語文語文典」。
古きをたずねて知に挑む人
4万語収録の大辞典を編纂、自費出版する歴史学者
京都大学/天理大学・名誉教授 河内良弘さん
■満州語と出会って 年余り
中国第一歴史档案館の
清朝公文書を読み解く
世 紀、満 州 族 の ヌ ル ハ チ が 建 国 し た 清
年 以 上 も 前、当 時、天 理 大 学 で
を と っ て い た 私 は、満 州 語 と 満 州 学 を
今 か ら
ばから逆転し、主に漢語が使われています。
こ に 漢 文 が 添 え ら れ て い ま し た。清 代 の 半
僚 の 文 書 は ま ず 満 州 語 で 正 本 が 書 か れ、そ
書 か れ て い ま し た が、詔 勅 や 歴 史 書 な ど 官
文 書 は 満 州 語、漢 文、モ ン ゴ ル 語 の 三 語 で
の公用語、それが満州語です。清朝歴代の公
60
い な い 資 料 も た く さ ん あ る。そ れ で 北 京 に
透 か し た ら 見 え る に 違 い な い。私 が 持 っ て
こ れ を ど う し て も 読 み た い。原 本 な ら 裏 を
ぶ さ れ、判 読 で き な い 箇 所 が あ り ま し た。
私 の 手 元 に あ っ た 写 真 版 は、墨 で 塗 り つ
西写真本と全く同じものでした。
た フ ィ ル ム を 現 像 し た と こ ろ、は た し て 今
れ、そ れ を 頼 み 込 ん で、や っ と 送 っ て く れ
て欲しいと言ったのですがやんわりと断ら
い と 断 定 で き ま せ ん。そ れ で 写 真 に 撮 ら せ
か し、実 際 に 手 持 ち の 資 料 と 見 比 べ て み な
の 手 元 に あ る 写 真 版 と 同 じ も の ら し い。し
先 生 に 見 せ て も ら っ た 満 州 語 の 資 料 で、私
ん で き ま し た。尋 ね て み る と、か つ て 今 西
どこかで見たことのある資料が目に飛び込
り で 漫 然 と 回 っ て い た の で す が、そ の 中 に
案 館 で し た。初 め、私 は 博 物 館 見 学 の つ も
そ の 時 に 立 ち 寄 っ た の が、中 国 第 一 歴 史 档
吉林省、黒竜江省︶を訪問する機会を得て、
研究のために中国の北京や東北地方︵遼寧省、
そ の 後、京 都 大 学 に 奉 職 し た 私 は、資 料
料をさらに写真に撮らせてもらいました。
ず れ 原 文 を 読 ん で み た い と 思 っ て、そ の 資
だ く 機 会 が あ り ま し た。そ の 時、自 分 も い
書かれた資料の分厚い写真集を見せていた
研究されていた今西春秋先生から満州語で
教
50
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03
消滅危惧言語・満州語を残し、伝える。
河内 良弘さん
コ ピ ー さ せ る は ず が な い と。そ れ を 日 本 か
外国人に清朝の公文書、それも原本を見せ、
西 華 門 か ら 一 歩 も 中 に 入 れ て く れ ま せ ん。
りの門前払い。第一歴史档案館のある故宮・
通 い 始 め た わ け で す が、最 初 の 頃 は 文 字 通
る も の で す が、日 本 に そ の 環 境 が な か っ た
通常3∼4種類の辞書を脇に置いて研究す
で す か ら 使 い 物 に な り ま せ ん。言 語 学 者 は
和 辞 典﹂の み。何 し ろ
年以上も前の辞書
し か し 辞 典 は や は り 戦 前 に 出 版 さ れ た﹁満
況でした。そこでまず文法書を出版しました。
そ の 後 帰 国 し た ら、日 本 も 同 じ よ う な 状
書かれた資料を読んでいくこともできませ
ま せ ん。満 州 語 辞 典 が な け れ ば、満 州 語 で
しかし自費でも何でも出版しなければいけ
今 の と こ ろ 八 方 塞 が り で、自 己 負 担 で す。
てはいろいろなところに声をかけましたが、
に は 書 店 に 並 ぶ 予 定 で す。出 版 費 用 に つ い
ま し た が、よ う や く 出 版 社 を 見 つ け、5 月
した。
引 け ま す。例 文 も で き る だ け 多 く 掲 載 し ま
日 本 語、満 州 語、ロ ー マ 字 の い ず れ か ら も
辞典は約4万語を収録し、別冊の索引をつけ、
ん。また、正確に読むには例文が必要です。
ら来たんだ、何とかしてくれと、粘りに粘っ
のです。
て⋮。やがて何とか許され、それから毎年、
年 近 く も 通 い 続 け ま し た。も ち ろ ん す べ
て私費、持ち出しです。
■辞書をつくる決意をし、
たった1人で始めた編纂作業。
語 学 を 学 ぶ 三 種 の 神 器 で あ る、辞 書 も 文 法
し た も の し か あ り ま せ ん で し た。つ ま り、
そ し て 辞 書 も 日 本 語 の﹁満 和 辞 典﹂を 英 訳
まず困ったのが、教える文法書がないこと。
3 人 の 白 人 学 生 に 満 州 語 を 教 え た 時 で す。
教 授 で 赴 任 し た 米 国・イ ン デ ィ ア ナ 大 学 で
転 機 が 訪 れ た の は、1 9 7 0 年 代 末、交 換
族 史 な ど を 研 究 し て い ま し た。そ ん な 私 に
私 の 専 攻 は も と も と 東 洋 史。女 真 族 や 満
それから二十何年、満
の 本 田 道 夫 先 生 で す。
知ったのが、香川大学
ん。困 っ て い た 時 に
たが、それもありませ
使用したいと考えまし
パソコンのフォントを
文 字 は 手 書 き で な く、
き る ソ フ ト が 必 要 で し た。さ ら に 満 州 語 の
ま せ ん。し か し 辞 書 の 編 纂 に は ソ ー ト の で
ま す け ど、プ ロ グ ラ ム や ソ フ ト 開 発 は で き
ところが私はパソコンで文章ぐらいは書け
め て 1 人 で ス タ ー ト す る こ と に し ま し た。
語 の 訳 を つ け る と 考 え て い た の で、あ ら た
例 文 を た く さ ん 入 れ る、そ の 例 文 に は 日 本
私はパソコンを使う、満洲文字を入れる、
発行時期などの条件が合いませんでした。
う と 考 え ま し た。し か し 辞 典 の 編 集 方 針 や
う か、中 国 の 満 語 研 究 所 と 協 力 し て つ く ろ
思ったのは、1980年代の終わり頃でしょ
は 漢 文 で は 省 か れ て い て、満 州 語 の 原 本 を
つ く る 人 が 特 別 に い た と か。こ れ ら の こ と
わ っ た 人 で、昼 寝 が 好 き だ と か、昼 ご 飯 を
例えば清朝の始祖ヌルハチはちょっと変
せ ん し、ニ ュ ア ン ス も ち ょ っ と 違 い ま す。
ま す が、漢 文 で は 満 州 族 の 本 音 は わ か り ま
き写した文書を読めばいいと考える人もい
満 州 語 を 読 ま ず と も、満 州 語 を 漢 文 で 書
事かな、という使命感もありました。
け れ ば い け な い 分 野 が あ り、こ れ も 私 の 仕
読 め な い の で す。や は り 歴 史 学 者 が や ら な
て も、役 所 特 有 の 単 語 が 出 て く る 公 文 書 は
で す ね。し か し 金 瓶 梅 を い く ら 流 暢 に 読 め
ぱら文学関係が多かった。例えば﹃金瓶梅﹄
が 扱 っ た 資 料 は 歴 史 の 史 料 で は な く、も っ
謀 に 近 い 話 で す。た だ、こ れ ま で 言 語 学 者
が 辞 書 を 編 纂 す る の は、今 か ら 考 え る と 無
私 は 言 語 学 者 で は あ り ま せ ん。そ ん な 私
と と 同 じ で す。錫 伯 族 に よ っ て か ろ う じ て
を伝えるということは民族性を保存するこ
い う の は 民 族 固 有 の も の で す か ら、満 州 語
の 文 化 ま で も が 失 わ れ ま す。言 葉、言 語 と
言 葉 が 無 く な れ ば、そ れ を 話 す 民 族 や そ
しています。
そ の 人 た ち が 今 幹 部 に な り、後 進 の 指 導 を
満州語で文書を読ませる訓練をしたのです。
錫 伯︵シ ベ︶族 の 生 徒 を 集 め、満 州 文 字 と
族 学 院 で、そ こ に 満 州 語 が 話 せ る 人、主 に
読 め る 人 材 を 養 成 し ま し た。そ れ が 中 央 民
し た の が 周 恩 来 首 相 で、革 命 後、満 州 語 の
て 資 料 の 散 逸 や、読 め な く な る こ と を 危 惧
を 重 視 し て 保 存 に 取 り 組 ん で い ま す。か つ
い わ ゆ る 公 文 書 や 古 文 書、記 録 と い う も の
﹁満 州 語 の 辞 書 を つ く ら な け れ ば ⋮﹂と
書 も 読 本 も な い。自 分 で 満 洲 語 を 英 語 に 翻
州語をソートできるソ
読んで初めてわかることです。小さな事件、
■民族の歴史、文化を知るには
言葉を知ることが必要です。
訳し、教材にしました。
フト開発からフォント
小さな事柄を知るには満州語を知っていな
年だろ
作成まで、本田道夫先
伝えられた満州語が残るのはあと
満州語で書かれた清朝や明の時代の文書
いとなりませんし、小さい逸話を知るほど、
■アメリカの大学で満州語を
教える。⋮が、三種の神器
﹁文法書﹂
﹁辞書﹂
﹁読本﹂がない 70
生と二人三脚でやって
古文書を所蔵する「中国第一歴史档案館」
(中国・北京)
くコツコツつくってき
出版できるあてもな
きました。
行されましたが、中国では早くから档案、
日 本 で も 最 近 よ う や く 公 文 書 管 理 法 が 施
人物なり歴史が生き生きとしてきます。
典を残していきたいのです。
うちに日本と満州語を繋ぐものとしての辞
う と 危 惧 さ れ て い ま す。だ か ら こ そ、今 の
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20
逸品
始
解題
まる
1963
︵昭和
︵写真は1964年製の別機種︶
︶
年
︻ TOTO歴史資料館所蔵︼
ユニットバスルーム
企業の歩みを語る上で欠かせない﹁もの﹂がある。
原点でもあり、象徴でもある﹁もの﹂を残し、
伝えてきた企業博物館にとってこの一品はまさに逸品である。
第3回は﹁始まる﹂をテーマにお届けする。
腰掛式サイホンゼット便器
1927︵昭和2︶年︻ TOTO歴史資料館所蔵︼
日本で初めての画期的な﹁お風呂場﹂
■TEL:093-951-2534
製の風呂桶がつくられ、個人用の家庭風呂が誕生した。江戸時代に入ると鉄砲風呂や五右衛門風
呂などの家庭風呂が登場し、過熱装置が組み込まれることによって、それまでの蒸気が主体の風
1 9 1 4︵大 正 3︶年 に 誕 生 し た 国 産 初 の 水 洗 便 器 は、構 造 も 簡 単 で、寸 法 の 小 さ い も の だ っ
東 洋 陶 器︵現TOTO︶は 1 9 6 3
なり、明治に入ってからは英国から輸入したシャワーが設置されるなど、近代化が進む。
呂から湯につかる現在のスタイルに変わっていった。大正時代に風呂桶や浴室がタイル張りに
た。しかし、グレードの高い建築物においては賓客がトイレを使用することもあり、見た目も大
︶年 に 大 便 器、洗 面 器、浴 槽 を
︵昭 和
便器の開発を始めたのである。構造が複雑なこともあり
器の構造自体を新たなものにする必要があった。そこで、東洋陶器︵現TOTO︶は新しい構造の
従来の便器を大きくするだけでは洗浄が不十分という理由から、開発は洗浄方式も含めた便
期短縮にもなるという画期的な商品
従来の浴室に比べ保温性にすぐれ、工
ニットバスルーム工法﹂を開発した。
一 つ の 空 間 に ま と め た 日 本 初 の﹁ユ
大型高級腰掛便器をようやく発売できた。
チで工事が進められていたホテル
で、翌 年、オ リ ン ピ ッ ク に 向 け 急 ピ ッ
高層アパートといわれる同潤会アパート
︵現国会議事堂︶を始め、日本で最初の
いった。
呼び、その後ホテルを中心に普及して
ニューオータニに設置されて話題を
この便器は
など、昭和時代初期の歴史的価値のある
建物に多く採用され、日本の
近代化に大きく貢献した。
■福岡県北九州市小倉北区貴船町 2-2
サウナのような蒸気浴にルーツを持つ日本のお風呂の歴史は、豊臣秀吉の朝鮮出兵を機に木
TOTO 歴史資料館
きく豪華な高級腰掛便器が要求された。
国会議事堂や
日本初の高層アパートで採用された
﹁国産初の高級腰掛便器﹂
38
開発に時間がかかり、︵昭和2︶年、国産初の
38
年に完成した帝国議会議事堂
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4
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36
■http://www.toto.co.jp/social/museum/
種
型
麦 わ ら 帽 子 製 造 用 環 縫 ミ シ ン︵ 昭 三 式 ミ シ ン ︶
1928︵昭和3︶年
量産型家庭用ミシン
70
︶年に創業したミシンの修理や部品の製造を行う
製造用環縫ミシンの開発に成功。 ︵昭和3︶年に販売を開始したことから﹁昭三式ミシン﹂と名
﹁安井ミシン商会﹂にさかのぼる。当時、輸入品のみだったミシンの国産化を手がけ、麦わら帽子
ブラザー工業のルーツは、1908︵明治
国産ミシンの一号機と家庭用量産ミシン
1932
︵昭和7︶年
︻ ブ ラ ザ ー コ ミ ュ ニケーション スペース所 蔵 ︼
15
41
の始まりである。
同時期に販売していた麦わら帽子水圧機で得た
利益をもとに家庭用ミシンの開発に着手し、
数年後、ついにミシンの心臓部である
シャトルフックと呼ばれる部品の開発に成功した。
麦わら帽子製造用環縫ミシン
(昭三式ミシン)
付けられ、初めてブラザーブランドのついた製品となった。これがブラザー工業のミシン製造
28
ミシンを造るための設備も自分たちの手で開発し、
型
量産型家庭用ミシン 15 種 70 型
年にブラザー工業初となる
種
■TEL:052-824-2227
■http://www.brother.co.jp/bcs
ソ フ ト 自 販 機﹁ T A K E R U ﹂
1986
︵昭和 ︶
年
︻ブラザー コミュニケーション スペース所蔵︼
1986︵昭和 ︶年、パソコンやゲームソフトが必要な時は店頭で並んでいるものを購入す
通信回線を利用した、
世界初のパソコンソフト自動販売機
61
量産型家庭用ミシン
■愛知県名古屋市瑞穂区塩入町 5-15
70
るのが当たり前だった時代に、ISDN回線を利用してフロッピーディスクにソフトをダウン
ロード購入するという、世界初のパソコンソフト自動販売機が登場した。それまでにない画期的
な発想であったが、今のようにADSLや光回線のある時代ではなかったため、ソフトをダウン
ロードするのに時間を要し、通信費がかかりすぎて事業としては成功しなかった。
そ の 後、﹁T A K E R U﹂の 技 術 や ノ ウ ハ ウ を 使 っ た、世 界 初 ネ ッ ト ワ ー ク 配 信 カ ラ オ ケ、
JOYSOUNDが誕生。﹁TAKERU﹂は、後に幅広く展開していくネットワーク・コンテン
ツ事業の第1号機であり、ブラザー工業にとっての逸品である。
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5
61
を完成させた。
15
32
ブラザー コミュニケーション スペース
ギアマンの牛乳瓶
江戸時代末期︵推定︶
ブ リ キ 製 牛 乳 缶︵5勺 容 器 ︶
1881︵明治 ︶年頃
︻ ト モ ヱ 牛 乳 博 物 館所蔵︼
日本における牛乳普及の
始まりを伝える貴重な史料
■TEL:0280-32-1111
■http://www.tomoemilk.jp
㎖︶入りのブリキ缶で配達されるよ
ラス瓶が使用されるようになるとブリキ缶は法律で禁止された。以来、時代によって牛乳用のガ
うになった。始めは蓋がなかったが、後に和紙や厚紙、コルク栓で蓋をしていたという。しかしガ
牛乳屋へ行き、はかり売りで買っていたが、のちに5勺︵約
明治時代に入ると牛乳を飲む習慣が少しずつ広がり始めた。人々は鍋などの容器を持参して
れており、日本における最初の牛乳瓶と言われている。蓋をするネジ切りがあるのが特色である。
が滋養強壮として飲んでいたとされる。この牛乳瓶は、ギアマンと呼ばれていたガラスでつくら
江戸幕府8代将軍徳川吉宗が日本で本格的な酪農を手がけて以降、牛乳は限られた層の人々
■茨城県古河市下辺見1955
ラス瓶は容量や形を変えていき、第二次世界大戦中には、資材の欠乏からビール瓶など様々な瓶
ゴ ル フ ク ラ ブ﹁ ス タ ー ラ イ ン ﹂
1933
︵昭和8︶
年
︻ミズノスポートロジーギャラリー所蔵︼
ゴルフ人口1万人の時代の、
日本初の国産ゴルフクラブ
1922︵大正 ︶年、日本を訪問中のイギリス皇太子が親善ゴルフをしたことがきっかけで
ミズノは ︵昭和8︶年にゴルフ用具を輸入販売する一方で、自社工場でもクラブ製造を開始
各地にゴルフコースがつくられた。
11
する。この年発売したのが、日本初の国産ゴルフクラブ﹁スターライン﹂である。2年後には売り
場スペースを拡張するとともに、
インドア練習場を設けた。ゴルフ人口が
全国で1万人に満たない時代の話である。
年にはミズノ製で初めての
鍛造アイアン
﹁トーナメント﹂
を発売、
その後も軟鉄鍛造の
﹁センターバランス﹂
﹁ハイパワー﹂﹁オールニッポン﹂
を、
次々と売り出して いる 。新 しい 素材
開発への取り組みは、
やがて
年のカーボン、︵平成2︶
年の
90
でつくった黒褐色の瓶も登場した。
33
■http://www.mizuno.co.jp/gallery/
トモヱ牛乳博物館
1950年代に入ると、無色の広口ガラス瓶に蓋として紙のキャップが登場した。キャップの
上には、牛乳であることを示す紫色のセロハンが掛けられていた。
■TEL:06-6614-8411
チタンに結実していく。
■大阪府大阪市住之江区南港北 1-12-35
90
6
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36
82
ミズノスポートロジーギャラリー
14
逸品
変遷
ナース 工株式会社
未来のために、振り返る。伝統・技・匠の心でつくるランドセル。
製 造 し て い ま し た。ラ ン ド セ ル は 東 京 製 品
や車のシート材を再利用し、通学用かばんを
当時は終戦間もない頃で物資がなく、船の帆
父 が 立 ち 上 げ た 依 田 製 所 が ル ー ツ。創 業
て い ま す。A 4 サ イ ズ の 教 材 の 主 流 に な れ
も時代とともにサイズ・色・機能性は進化し
本 的 な 性 能 に 変 わ り は あ り ま せ ん。そ れ で
100年余の歴史を持つランドセルは、基
時はベルトを使っていました。
でロックする構造になっている蓋は、この当
といって東京から始まったものですが、特に
ば そ れ に 伴 っ て 大 き く し、子 ど も た ち の
︶年に私の
足立区には多くのメーカーがあったようで
ファッション化に合わせ多色展開を行って
ナース 工は、1948︵昭和
す。 年頃から市場に革が流通し始め、現在
町などの問屋街に納品したと
きあがったランドセルをリヤカーに積んで
ン ド セ ル を 手 が け る よ う に な り ま し た。で
のような、いわゆる﹁学習院型﹂と呼ばれるラ
いやすさや新素材の採用による耐性の向上
色 で す。さ ら に 子 ど も の 体 格 に 合 っ た 背 負
ほとんどがパステル系やビビッド系の中間
います。今では赤と黒は全体の1割程度で、
日本橋や馬
はならぬものであり、子どもが自分の意思で
ランドセルは子どもたちにとって、なくて
見直すこともできます。
いけれど、しっかりしている。昔の機能性を
す。昔 の も の づ く り は 雑 だ っ た か も し れ な
て、過去を振り返るのも非常に大事なことで
︵写 真②︶。新 し い 製 品 を 開 発 す る に あ た っ
が、時代時代のランドセルを保存しています
当 社 で は、す べ て の 製 品 で は あ り ま せ ん
います︵写真①︶。
を目指し、軽量化は常に目標の1つとなって
年、当社は
聞 い て い ま す。 日本で初めて、
ランドセルで
文部大臣賞を
協会が主催する
受賞しました。
日本
コンクールで、地方予選を
選 ぶ 初 め て の 持 ち 物。親 や 祖 父 母 も 交 え た
が集まる全国大
も の で も あ り ま す。当 社 も こ れ ま で の 伝 統
通過したあらゆる種類の
めてだったそうです。
を活かし、匠を始めとする人の手による技を
3世代が一緒にコミュニケーションできる
こ の 頃 の ラ ン ド セ ル は 芯 材 に 分 厚 い ボ ー
継承しながら、優れた製品を届けていきたい
会で、ランドセルが受賞したのはその時が初
ル紙を使い、厚い革で仕立てられていたので
kg
ナース鞄工株式会社 代表取締役社長 依田 光展 氏
Muse vol.22
7
23
と考えます。
①カラフルでバラエティに富んだ、現在のランドセル
3
.5 ほどあります。現在は金具
大変重く、1
②ランドセルづくりの歴史を物語る、歴代のランドセル。左から昭和 28 年製、36 年製、40 年製
50
58
事業所のあった街をたずねて
鉄道が、
歴史と経済をつなげた城下町。
日本列島の中心に位置する岐阜県高山市は、
2005年の市町村合併により、
日本一面積が大きい市となった。
この地にも帝国興信所は出張所を設けていた。
る と、永 田 家 は 高 山 町 の 会 社 9 社 の ち、3 社
に 関 わ っ て い る こ と が わ か る。飛 騨 銀 行 で
旦那衆の存在が高山経済を牽引していた。
を 永 田 吉 右 衛 門 が 務 め て い た。こ の よ う に
は頭取、飛騨電灯と飛騨林業の2社では役員
高山は岐阜県に位置するが富山県に近く、
今も富山支店が担当している。JR高山駅に
れ、
高山本線の特急が到着すると、白川郷行きの
バスに乗る人や市内観光に向かう人で
外 国 人 観 光 客 の 姿 も 多 い。高 山 観 光 で 多 く
自の地域経済を形勢していた高山町に調査
1927︵昭和2︶年7月、帝国興信所は独
の人が訪れる古い街並みは、﹁さんまち﹂と呼
︶年から100年近く飛騨国を治めた金
森長近は高山城を築き、城の周りを武家地と
山方面に於ける調査報告の敏速と正確とを
拠 点 と し て の 出 張 所 を 開 設 し た。﹁飛 騨 国 高
開設当初事務所を置いた高山町川西は、商
し、さらにその下を町人の住む町﹁三町﹂とし
工 業 を 営 む 家 が 多 か っ た。警 察、裁 判 所、役
期 す る 為 め﹂︵﹃脱 俗﹄、1 9 2 7 年 7 月︶で あ
えていた。
場、郵 便 局、官 庁 と も 隣 接 し て い た。そ の 後
る︵写真①︶。
金 森 氏 は 山 林 政 策 に 力 を 入 れ 木 材 を 諸 国
何度か事務所を移転していたが、詳細な資料
た。以来高山の商業の中心地として栄え、帝
へ販売し、利益を得て街道を整備した。また、
がなく全ての場所を特定することはできな
町 名 変 更 に な っ て い る こ と が わ か っ た 。今
さ れ、現 在 の 天 性 寺 町・吹 屋 町・島 川 原 町 に
い。た だ 一 時 期 を 過 ご し た 空 町 は 町 名 変 更
旦 那 衆 と 呼 ば れ る 豪 族 が 中 心 と な り、酒 造
の工場が
件、製糸5件と、この2業
は 市 の 駐 車 場 と し て﹁ 空 町 ﹂の 文字を残すの
月6日付﹃帝国興信日報﹄の記事︵写
種 で 半 分 を 占 め て い た︵﹃高 山 市 史 第 3 巻﹄、
年
1983年8月︶。旦那衆のひとり永田家は
あったが、酒醸造
1 9 3 4︵昭 和 9︶年 に は 高 山 に
業、製 糸 業 な ど が 盛 ん に な っ て い っ た。
国興信所高山出張所もこの地に事業所を構
正
ばれるエリアに集中している。1586︵天
■高山出張所の活動
地道にひっそりと
帝国データバンクが行う同市の調査は昔も
城下町から経済の中心地へ
■
旦那衆が牽引
●高山出張所が最初に開設した高山町川西 610
様 々 な 事 業 を 手 掛 け て い た。 ︵大 正 元︶年
12
開設後2年で一時閉鎖、
再開したもののわずか7年間に
[ 所蔵:高山市教育委員会 ]
に刊行した﹃帝国銀行 会社 要録 初 版﹄によ
29
12
4度の移転を繰り返したあげく、
1935(昭和 10)年高山市街図
29
みである︵写真②︶。
10
高山篇
写真②
8
Muse vol.22
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閉鎖を余儀なくされた高山出張所である。
永田家の酒蔵
現在は飛騨高山まちの博物館の敷地内にある
高山出張所の変遷
閉鎖
写真④『大阪朝日新聞岐阜版』1934 年10 月24日
[所蔵:岐阜県図書館]
写真③
ある。
初期、信用調査への理解が難しい時代の話で
分に
真③︶に は、空 町 と 並 ん で﹁東 小 学 校 前﹂と 記
■高山本線の開通
時間が4時間
さ れ て い る。東 小 学 校 は 現 在 移 転 し て い る
が、 年当時は今の高山市図書館の地にあっ
た。周りには古くから残る家があり、最後の
事務所も小学校の斜向かいにあったことま
で は 特 定 で き た。当 時 の 土 地 の 所 有 者 は 高
かに当時の活動が読みとれる。1年間の調査
に毎月掲載された月間調査件数からは、わず
帝国興信所の文字はなかった。社内報﹃脱俗﹄
高 山 市 図 書 館 で 当 時 の 古 地 図 を 調 べ た が
とされている。
き に 至 っ た の で﹂︵﹃脱 俗﹄、1 9 3 4 年
高山を経て岐阜に至る︶全通の結果之が要な
鎖 さ れ た。そ の 理 由 は﹁高 山 本 線︵富 山 よ り
1934︵昭和9︶年
山の豪商、永田家一族であった。
件数は、 年は 100件を超えたものの他 の
都市では次々と鉄道が建設され、陸の孤島
月︶
月、高山出張所は閉
年は毎年 件前後で推移。規模は小さいなが
高 山 出 張 所 は、富 山 支 店 の 出 張 所 扱 い で、
らも確かに調査活動は行われていたのだ。
いに
岐阜
高山にも鉄道敷設の機運が高まっていった。
日、高 山 駅 が 開 業、全 線 開 通
と が わ か っ た︵﹃大 正 懐 昔 飛 騨 高 山 庶 民 生
て い た 人 物 に﹁山 崎 与 一 郎﹂の 名 前 が あ る こ
家が並び、さらに同じ三之町で硝子板を扱っ
が、三之町に﹁山崎医者﹂﹁山崎タイル﹂という
跡 を 調 べ た と こ ろ、堀 川、奥 田 は 不 明 だ っ た
を 務 め た。当 時 の 資 料 を た よ り に 彼 ら の 足
間、そ の 後 は 奥 田 芳 太 郎、山 崎 与 一 郎 が 後 任
黒 田 の 他 に﹁常 置 員﹂堀 川 良 次 が 最 初 の 1 年
い る。開 通 を 祝 う 協 賛 広 告 で あ る こ と が 窺
の本社と大阪本部の所在地だけが記されて
高山出張所の住所は記載されておらず、東京
︵写真④︶。既に閉鎖が決まっていたからか、
面には帝国興信所の広告が掲載されていた
出 し で 駅 舎 や ト ン ネ ル の 写 真 を 掲 載。同 紙
を 明 日 に 控 へ、沿 線 町 村 興 奮 沸 る﹂と い う 見
阪 朝 日 新 聞 岐 阜 版﹄の 一 面 は﹁歴 史 的 開 通 式
は開通前から大賑わいを見せた。前日の﹃大
した。開通祝賀式は盛大に行われ、新聞紙上
年
活資料雑綴﹄、1983年9月︶。この付近に
える。
分。か つ て 乗 合 自 動 車 で
高山間は4時間
時間かかって
∼
分で結ばれる
て い た と い う。山 崎 は ひ っ そ り と 高 山 出 張
さんの呉服屋 も か つ て 保 険 の 代 理 店 を さ れ
いる人は代理業を引き受けることが多く、住
した。当時の状況については、商売をやって
の場所は現在の土産物屋であることが一致
と が な い そ う だ が、山 崎 の 息 子 は 医 者 で、そ
信所の仕事をしていたという話は聞いたこ
目を終えたのである。
あ っ た が、激 動 の 高 山 経 済 を 見 守 り、そ の 役
山。高 山 出 張 所 の 歴 史 は 目 立 た な い も の で
よってつながれ、観光客のために残された高
な っ た。金 森 氏 に よ っ て つ く ら れ、鉄 道 に
ラ ッ ク 輸 送 に 変 わ り、鉄 道 は 観 光 客 の 足 と
道 路 が 整 備 さ れ、自 動 車 が 普 及 す る と、ト
と 格 段 に 早 く 運 べ る よ う に な っ た。し か し
日 か け て 運 ん で い た 木 材 は、鉄 道 で 1、2 日
こ と と な っ た。そ れ ま で 川 を 使 っ て
いた岐阜
富山間は2時間
は 明 治・大 正 創 業 の 老 舗 が 今 も 同 じ 場 所 で
︶年 か ら 続 く 呉
歳 の 住 淺 吉 さ ん だ。山 崎 が 興
一 之 町 で 1 9 0 0︵明 治
る人物に会うことができた。
山崎の関係は判然としなかったが、山崎を知
営業しており、聞き取りの結果﹁山崎医者﹂は
25
全線開通によって、高山
月
各 務 ヶ 原 間 の 一 部 開 通 か ら 5 年。つ
同 支 所 長 の 黒 田 等 が 出 張 所 長 を 兼 務 し た。
34 |
所 の 経 営 に 携 わ っ て い た の だ ろ う か 。昭 和
服屋を営む
50
岐阜県高山町空町 2903 に移転
1934.11.20
12
40
岐阜県高山町三之町に移転
1934.8.-
20
20 13
岐阜県高山町空町に再開設
1932.9.25
11
|
一時閉鎖
1929.12.3
29
現 在 は 土 産 物 屋 に な っ て い た。土 産 物 屋 と
10
|
1929.2.-
13
37
岐阜県高山町空町に移転
Muse vol.22
9
33
岐阜県高山町 2 元町 1 に移転
1928.9.27
60 31
89
1928.1.30
写真①
岐阜県飛騨国高山町川西 610 に開設
1927.7.11
帝国データバンクの出版物は創業以来、
幾多の企業広告を掲載してきた。100年前と比較して、
広告はどのような変遷をたどったのだろうか。
広告いまむかし−3
キリン
『帝国銀行会社要録』
第 7 版に掲載された広告
帝国興信所が 1918(大正 7)年に発行した『帝国銀行会社要録』第
7 版には、様々な企業や業種の広告が並んでいる。ほとんどは社名
と事業内容、営業品目を紹介する内容であるが、その中でひときわ
目をひくのがキリンの広告だ。
キリン株式会社 CSV 本部コーポレートコミュニケーション部
アーカイブ室の関根麻里さんによると、
「大正 7 年というと、第一次
世界大戦中で日本が大戦景気に沸いていた頃です。ビールの需要が
伸び、当社も横浜工場だけでは生産が追いつかず、後の尼崎工場で
ある神崎工場をつくり生産量を増やしていったという年でした」。
2014 年 1 月 3 日に掲載された一番搾りの広告 [ 写真提供:キリン株式会社 ]
キリンビールの前身は、横浜の在留外国人が中心となって 1885
また、大正時代はカフェやビアホールに行って、ビールを飲むと
(明治 18)年に設立したジャパン・ブルワリー・カンパニーである。
いう都市文化が現れ始める頃でもあった。人々は集い、ビールを片
外国法人であったため、日本人経営の代理店を通じて販売しなくて
手に語らい合っていたのである。当時、キリンの広告展開は、雑誌や
はならず、明治屋と販売代理店の契約を結んでいた。この広告は
新聞、店頭や駅向けのポスターが中心であったそうだが、1909(明
キャラクターとキャッチコピー、商品名とシンプルな構成になって
治 42)年には、今でいう広告宣伝カーを走らせていたという。
「車体
いるが、これについて関根さんは「明治屋さんは外国の商品を輸入
にブリキのビールびん型ボディを取り付けた宣伝カーですが、配送
して販売し、クリスマスのショーウィンドウを日本で初めて手がけ
も兼ねていました。しかしブリキが重くて運べる量に限りがあり、
るなど、センスがよくハイカラでした。その雰囲気がキリンビール
実用的ではありませんでした」
(関根さん)。
の広告にも反映されているのかも知れません。キャッチコピーも、
キリンといえば、現在はブランドも増え、有名タレントを起用し
ビールの需要自体が伸びてきた時代でもありますが、それを、おい
たさまざまな広告展開をしている。キリンビール株式会社マーケ
しいからこれだけ伸びているんです、と品質に重ねて紹介していま
ティング部 広告クリエイティブ担当の鈴木郁真さんは「この一番
す」と分析する。
搾りの広告は、2014 年の年始に新聞に掲載されたものです。一番
うまいビールを作るんだと宣言しているブランド広告ですね。素材
のこだわり・飲み方のこだわり・つくり手のこだわりを訴求する内
容ですが、今回『帝国銀行会社要録』に掲載された広告を見て、根幹
となる部分は変わらないと再認識しました」と語る。
100 年前の広告からは、新しい文化への期待感や、人々が集い、飲
み交わしていた光景が想像できる。創業一世紀を超えて打ち出す一
1909(明治 42)年、購入先のイギリスから到着した「キリンビール」の宣伝カー。
警視庁登録番号第 1 号となったことから、
「 ナンバーワン自動車」と呼ばれた。
[ 写真提供:キリン株式会社 ]
Muse vol.22
番搾りの広告は、品質と製法にこだわるという、揺るぎない企業姿
勢を表すものであるが、そこからはいろいろな人が美味しく楽しく
ビールを飲んでいる姿が浮かんでくる。
10
TEIKOKU DATABANK Historical Museum
NEWS
史料館ニュース
特別企画:日本の会社展 第3回
「企業博物館−逸品解題−」を開催しました。
2013年10月1日から12月1日まで、
「日本の会社展 第3回 企業博物館−逸品解題−」
を開催しました。国内外の企業博物館250館の持つ
「逸品」
と物語を、
大小様々なパネル
とデジタルパネルで展示しました。会場内では、
1枚1枚のパネルをじっくりご覧になる
方が多く、
熱心に見学される様子が印象的でした。また、
海外の企業博物館からはミュー
ジアムグッズや図録が寄せられたこともあり、
来館者の関心を集めていました。
このように国内外の企業博物館が一堂に会するという展示はこれまでない企画で、
「日
本にも世界にもこんなに多くの企業博物館があったとは知らなかった」
という反響を
多くいただきました。
最後に、
ご協力いただいた企業博物館、
来館者、
関係者の皆さまにこの場を借りて改め
て御礼申し上げます。
『別冊 Muse2013』を刊行
昨年 9 月に『別冊 Muse2013』を刊行しました。テーマは、
「日本の会社展 第 3 回 企業博物館−逸
品解題−」
の開催に合わせて
「産業文化博物館 広がる、
重なる、
繋がる」
。企業系あるいは産業
系博物館について、
その取り巻く状況や、
M(Museum)L(Library)A(Archive)の連携という
無限の可能性を持った広がりを、
インタビューや寄稿、
座談会で構成しています。
巻頭では歌手の石川さゆりさんに、
消えゆく唄をつなぎ、
後世に伝えていくご自身の活動
について語っていただきました。座談会
「Talk Session 白熱メッセージ」
では様々な企業博物館
に携わる方々により、
従来の企業博物館のイメージを大幅に広げる新鮮なお話が繰り広げられました。
▶▶▶入手をご希望の方は電話(03-5919-9600)かメール(shiryokan@tdb.co.jp)にて送付先をご連絡ください。
テーマ展示:後藤義夫第 3 代社長没後10 年記念
「時代を拓く。明日をつかむ。
未来への伝言」開催中
現在、常設展示室「テーマ展示」コーナーでは、
「後藤義夫第 3 代
社長没後10年記念 時代を拓く。明日をつかむ。未来への伝言」
を開催しています。今年創業 114 周年を迎えた帝国データバン
クにおいて、中興の祖とも言うべき第 3 代社長後藤義夫の没後
10 年を記念し、その軌跡を数々の言葉でご紹介しています。
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Muse vol.22
TEIKO KU DATABAN K Hi s to ric a l M u s e u m
2014.3
Vol.
22
表 紙 のご案 内
『創 業 者 後 藤 武 夫 像 の 銘 文』
19 2 6(大 正15)年12 月に 竣 工した 帝 国 興 信 所 本 社ビ ル の 敷
地 内には、後 藤 武 夫 の 銅 像 が 建 立されていた。銅 像に 刻まれ た
この 銘 文には、武 夫 の 出 生 から帝 国 興 信 所、日本 魂 社 設 立に 至
るまで の 略 歴 が 記されて い る。また、この 銅 像 は 社 員や 武 夫 が
学 資 援 助 をした 者 で 組 織 さ れ た 桜 会ら 、1,0 0 0 名 の 出 資 に よ
って で きた も の で あ る こと 、銅 像 を 鋳 造した 北 村 西 望 の 名 前
な ど も 記 さ れて い る 。銅 像 は 戦 時 中 の 金 属 供 出 で 現 存して い
ないが、この 銘 文 だけは残ってい る。
〒160-0003 東京都新宿区本塩町22-8 TEL.03-5919-9600(直通)
ご 来 館の 際 は、1F 受 付に お 越し下さい。
帝国データバンク史料館だより《Muse Vol. 22》2014年3月発行 ©帝国データバンク史料館
ご利用案内
[入 館 料] 無料
[開館時間] 10:00∼16:30(入館は16:00まで)
[休 館 日] 土・日・月曜日および祝日、年末年始
(その他展示替えなどのため、臨時に休館することがあります。)
交通のご案内
[ J R ご 利 用 ] 中央線・総武線 市ケ谷駅
中央線 四ツ谷駅
[地下鉄ご利用] 南北線・有楽町線 市ケ谷駅
都営新宿線 曙橋駅
丸ノ内線・南北線 四ツ谷駅
徒歩8分
四ツ谷口から徒歩9分
7番出口から徒歩6分
A4番出口から徒歩9分
2番出口から徒歩9分
ご来館の際には館内のご案内、ご質問など、お気軽にお申し越しください。
なお、当館ホームページで展示内容や最新ニュースなどをご紹介しています。
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