雲南の山地少数民族の村々を訪ねて 2008 年秋

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雲南の山地少数民族の村々を訪ねて 2008年秋
前田, 栄三
ヒマラヤ学誌 : Himalayan Study Monographs (2010), 11:
222-231
2010-05-01
http://hdl.handle.net/2433/186050
Right
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Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
ヒマラヤ学誌 No.11, 222-231, 2010
雲南の山地少数民族の村々を訪ねて 2008 年秋(前田栄三)
雲南の山地少数民族の村々を訪ねて 2008 年秋
前田栄三
京都大学学士山岳会
はじめに
この収奪の担い手が、秦漢の時代から今に至る
2008 年 11 月の雲南の旅は、私には僅かに 3 度
も陸続として雲南に移住・進出し、凌ぎ易い中標
目でしかない。然も 3 回ともに 2 週間程度のごく
高盆地に居を構え雲南に君臨している漢族であ
短かな期間である。3 ~ 4 日間の昆明或いはシー
り、その漢族による森林破壊の原型が明朝による
サンパンナの景洪訪問を含めても、雲南訪問は全
3 度に亘る麓川(タイ族の王国、モンマウ)征討(延
6 回に過ぎない。2008 年秋は、そうした中での印
べ 80 万もの軍兵、然も犯罪者を多く含む漢族の
象深い旅となった。
流入)と戦後の屯田開拓(大規模な森林伐採と畑
今回の旅は全期間、雲南大学民族研究院の教授・
地化)に見られること 1)を知ったのは、ここ数年
博士研究生・修士研究生が一緒したほか、現地調
のことである。
整役として文山州丘北県の(元) 旅游局長が同行
した。訪問した村々で地域の長老や幹部の方々の
雲南の地勢、概要
出迎えを受け、民家での宿泊、晩餐・昼餐・歌舞・
雲嶺(四川省との境にある山地)の南に位置す
対歌・機織&刺繍の実演等など、心のこもった歓
るのでその名が付いたとも云う雲南省は、人口約
迎をいただいた。訪問地域及びその行程(地図 1.
4,500 万人、日本(37.8 万 km2)とほぼ同じ面積(39.4
及び参考 1.参照)は、省都・昆明市から南下し
万 km2)を持つ中国南部の一省である。雲南省の
て玉渓市に入り、新平県~紅河河畔の腰街鎮・南
盆地は、面積的には 6%を占めるに過ぎず、大部
碱村(花腰タイ族文化生態村)~再び高地の新平
分(94%相当)は山地・高原地域である。しかし
県に戻り、東方の紅河州建水県~個旧市を経て山
人 口 は、 盆 地( 山 間、 河 谷 盆 地 )
、特に標高
上の苗族の村( 卡 房 鎮 )~蒙自市~山上の元陽
1300m ~ 2500m の中標高盆地に集中している 1)。
旧県城~開遠市(これまで紅河州)、更に東方の
地形は、総体的に北西部の標高が高く南東部が
文山州丘北県・仙人洞村(彝(ィ)族文化生態村)
低くなっている。北西部はチベット高原の東にあ
~北上して紅河州弥勒市~世界自然遺産・昆明市
たり雲南省の最高峰・梅里雪山(主峰カワカブ・
石林県を経て昆明市に帰着…である。全行程、雲
6740m)が聳え、イラワジ河(中国名「独龍江」
)、
南大学のバスで移動した。
サルウィン河(「怒江」)
、メコン河(「瀾滄江」
)、
1996 年 3 月、中東の産油国へ向かう途次、私
揚子江(「金沙江」)といった世界の大河の上流部
はバンコクから北上して初めて昆明を訪問した。
が集中している。更に、紅河(「元江」、ベトナム
3 日間の滞在ではあったが、南詔国時代創建の古
のトンキン湾に注ぐ)、珠江(源流/上流・「南盤
刹・円通禅寺そして西山森林公園の華亭寺を訪れ、
江」という)が流れ、これら 6 大水系の大中小の
梅里雪山峰に逝った仲間達の冥福を祈った。企業
支流を含めると 600 を越す河川が流れている。
人にとっては、当時の徳欽/飛来寺の地は遥かな
雲貴高原は、雲南省中部の哀牢山脈(
「元江」
る僻遠の地、許容される僅かな時間の裡に安全安
南岸に沿って連なる)よりも東、東南丘陵よりも
心して訪問できる所では、到底なかった。
西の一帯に広がっている。行政区でいえば、雲南
石林に向かう車中から眺めた道中の里山は、文
省東部、貴州省全域、広西チワン族自治区の北西
字通り一木一草もない、異様な連なり重なりであっ
部、および四川省・湖南省・湖北省の省境付近に
た。
「大躍進」政策そして「文化大革命」の残した
あたる。哀牢山脈の北西方向には横断山脈が走り、
凄まじい爪痕、徹底した里山の森林資源収奪とそ
チベット高原へと続いている。
の後の荒廃を初めて眼にしたのも、この時である。
e-mail: miyamoto@lbm.go.jp
海抜は概ね 1,000 メートルから 2,000 メートル
― 222 ―
ヒマラヤ学誌 No.11 2010
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地図 1 雲南省の位置 3)
であり、北西が高く南東が低い。因みにシャング
(ハニ)族、丘北県錦屏鎮碧松鷲村・壮(チワン)
リラ(中甸)の標高は平均 3,200m、麗江では平
族、 新 平 市 か ら 個 旧 市 を 経 て、 山 上( 標 高 約
均 2,400m、昆明は 1,890m である。高原の中には
2000m、卡 房 鎮 )の苗(ミャオ)族の村を訪問し、
多数の山間盆地がある。盆地や河川により、雲貴
生活文化の実態の一端を観察する機会を得た。
高原はさらにいくつかの高原に分けられる。
雲貴高原は、長江(金沙江)流域と南の珠江(西
新平県腰街鎮南碱村・花腰タイ族(2008 年 11 月
江)流域、およびベトナム北部を流れトンキン湾
4 日泊~ 5 日)
に注ぐ紅河(元江)流域の分水嶺でもある。高原
尹老師の車内説明によれば、「昆明は人口 380
を流れる主な河川には、長江の上流である金沙江、
万、その内 100 万人が外から移住してきている。
長江の支流である烏江・沅江・普渡河・牛欄江、
上海は殆どが外部からの移住者である。昆明では
珠江(西江)の源流である南盤江、その支流であ
10 年前に畑だったところが、今では工業団地に
る北盤江・柳江、紅河の源流・元江などがあり、
なっている。市の東 15km に新しい大学町を建設
雲貴高原を貫いて流れ、深い峡谷で高原をさらに
中で、完成すれば雲南大学の本科生が移動する。
小さな高原に分けている。
滇池の汚染が問題で環境対策を必要としている。
地下鉄を計画している。これから訪問する南碱村
少数民族の村々を訪ねて、
見聞した事柄など
の花腰タイ族は高齢化しつつある。若い女性が街
雲南大学民族研究院の尹紹亭教授とそのグルー
に出稼ぎに行ってしまい、村には未婚の男性が多
プは、雲南の少数民族の文化を創造的に伝承する
く、問題になっている。
」
運動を行ってきた。具体的には 5 箇所を試行地に
石寨山遺跡の近くを通ったところで、再び老師
選定し「民族文化生態村」
(参考 2.参照)と位
から「この一帯は未だ遺跡がたくさん残っている。
置付け、1998 年以来活動を継続し、2002 年に「民
ここから発掘された青銅鼓や“滇王の金印”は昆
族文化生態村―雲南試点報告」 として報告書を
明の雲南省博物館に保管されている」。やがて玉
出版している。
渓市新平県に入った。この街はタイ族と彝族の町
2008 年秋、私達は尹老師と共に文化生態村 2
で、
県知事は交代して就くという。標高約 1,480m、
箇所(「花腰タイ族の南碱村」と「彝族の仙人洞村」
)
街の中心部は柳の並木道だった。新平賓館で李樹
を訪問した。この他、元陽県梯田鎮・棚田の蛤尼
華新平県宣伝部長の出迎えを受け食事を一緒す
2)
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雲南の山地少数民族の村々を訪ねて 2008 年秋(前田栄三)
る。彼女は彝族、哈尼族の若い女性達が給仕する。
は牛皮の大太鼓があった。村内の道は滑り止めの
13 品の内 2 品が狗料理だった。初めて口にする。
石を表面に散りばめて舗装されている。道路は援
身体が温まるという。
助金でまかない、家は村人達で建てたという 2)。
狗肉は違和感なく美味しく食べられた。しかし
ある家の前には“蜂の巣”を吊るしている。穴が
何故か箸がすすむということでは無かった。深層
多いので鬼がどこから入ったらよいのか判らなく
心理的に…幼い頃に聞かされた「花咲爺さん」
「枯
なるからだという。
れ木に花」のイメージが心をよぎったのかも知れ
翌日朝食後、集落の神山(神の宿る山)に村長
ない。或いは喧騒するバンコクの路上で、一切の
の案内で登る。雨上がりの泥道に難渋する。張さ
物音にも煩わされる事なく眼を閉じて横たわる犬
んが“稲の原種”と言って指さす。林道に降り村
達、飼犬とも思えない大きな犬の姿を想起したの
を流れる川岸(元江に注ぐ小沢)で魚を獲る仕掛
かも知れない。「花咲爺」に似た説話は、中国で
けと養魚池を見学後、集会所で昼食(大きな鯰 2
も「狗耕田」とか「耕田狗」と呼んでいて、雲南・
匹と地鶏などの料理)
。
貴州・広西を含め極めて広い地域に分布している
みゃお
かーふぁんつぇん
という 4)。
山上(標高約 2000m)の 苗 族の村( 卡 房 鎮 )
南碱村の入口で、盛装した白紹福村長や女性達
→蒙自 11 月 6 日泊~ 7 日
の「悪魔払い」の儀式(写真 1)を受ける。綾取
7 日 8 時、葬儀(本葬儀)が執り行われる(写
りの紐で作ったような門を潜り竹筒の白酒を振る
真 3 & 4)。5 年前に亡くなったが貧しくて冷葬(仮
舞われ手首に赤い糸を巻かれて後、村に入る。御
葬儀)で済ませた男性の本葬であった。広場に造
神木の下でサトウキビをかじりながら、村長・前
られたやぐらの周りを、女性は鮮やかな苗族の民
村長と質疑応答。
族衣装を纏い、遺族と親類縁者等 5 ~ 60 名が行
「迎えてくれた女性達の衣装は儀式用で、普段
列を成しシンバルを鳴らし竹笛を吹いて生贄の牛
は着ていない。この地には 700 年前に移住してき
と共に何回も廻る。男は 9 回、女は 7 回廻るとい
たと伝えられている。現在 56 家族、276 人が住む。
う。長い竹棹の上に神と人を結ぶ鳥が飾ってあっ
無文字社会で村長は 3 年に 1 回、選挙で選ばれる。
た。やがて女たちが一箇所に集まり盛んに泣いて
川(紅河、中国名「元江」
)(写真 2)には約 80
いる。これもお別れの儀式なのだろう。竹棹と藁
種類の魚がいたが、上流が汚染され、人口も増え
の屋根で出来た安置所に霊盆(故人の苗族の上着
たので今では 30 種類ほどに減っている。この辺
を竹製盆にかけて魂が入っているもの)を置いて、
りは農業が主で、今はサトウキビの収穫期。タイ
皆、声を出して泣く。泣くことによって魂を天国
族はやらないが、彝族は焼畑農業をやっている」
。
へ導く風習がここにもあるようだ。娘たちは空涙
「このあたりのタイ族は 3 つの支族に分かれ、
ではなかった。生贄を殺す前に祈りのような儀式
花腰タイ族は別名ダイ・カー、南碱村を含む 44
があり、鼻輪を両側から綱で引かれた生贄の牛を
の集落で約 7,000 人いる。ダイ・ヤーの女性は、
爆竹で驚かせながら、二人の若者が牛の眉間目掛
竹製のお盆を頭にかぶり、ダイ・サーの女性はベ
けて玄翁を打ち下ろす。
もんつ
トナム式の笠をかぶる。80 年ほど前までは、お
ハ
ニ
互いに結婚することはなかったが、今では一緒に
元陽県の山上にある旧県城に移動(蛤 尼族村)
。
なることもある。宗教はアニミズム。葬式では太
11 月 8 日泊~ 9 日
鼓や笛が吹かれ村長が取り仕切るが、村の祭祀の
12° 25' 元陽旧市街の雲梯大酒店着。昼食後、
主催者は 6 人の女性が取り仕切る。最高齢は 60 歳。
棚田の観察に出かける。最初の棚田スポットの小
村では織物や刺繍そして竹製品を作っている。文
広場では蛤尼族が大事にしている「蛙、タニシ、
字を持たないので歌の伝承が難しい。この村の学
水牛、鯉」の石像が迎えてくれた。
校は廃校となり、子供達は 5km 程離れた別の村
棚田観察の途中の集落で彝族の新築祝いの集い
の学校に寄宿している」
。
に遭遇する。庭では民族衣装で着飾った踊り手が
2002 年設立の文化伝習館には、脱穀機、機 織
お祝いの踊りを披露し、玄関では村人達が持ち寄
機や生活道具、竹製鰻捕り器などのほか、2 階に
るお祝いの米、卵などを世話役が受け取っていた。
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ヒマラヤ学誌 No.11 2010
写真 1 花腰タイ族村入口
写真 2 花腰タイ族村から紅河を望む
写真 3 苗族の葬儀(1)
写真 4 苗族の葬儀(2)
写真 5 歓迎の餅つき(壮族村)
写真 6 神山山頂から仙人洞村を望む
当主の奥さんが家の中を案内してくれた。レンガ
ていた。建築費は 30 万元とか。餅米で作った甘
造りの 3 階建てで 3 階が寝室、2 階は物置き場、
い菓子を振る舞われた。
1 階は台所と居間、屋上は穀物などの乾燥場となっ
しばらく集落内を散策後、夕日に染まる棚田を
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雲南の山地少数民族の村々を訪ねて 2008 年秋(前田栄三)
見下ろすスポットに出掛ける。眼下に広がる棚田
壮(チワン)族村を訪問、昼食後仙人洞村へ戻る。
を一望に見渡せる岩頭のスポット、それにしても
11 月 11 日
気の遠くなるような長い、ながい年月を掛けて
朝食後丘北市内に戻り、 壮 族学会長王兆権さ
営々と築き上げた棚田の景観に圧倒される。
ん達を乗せて錦 屏 鎮 碧 松 鷲村に向う。雲南松と
9 日、蛤尼族の「全福庄村」村内を歩く。石畳
ユーカリの並木道に人、牛車、バス、オートバイ
の道、放し飼いの豚や鶏、犬、洟垂れ小僧たちに
が行き交う。
半世紀前の日本の田舎を見るようだ。細い路地裏
碧松鷲村では村民委員会集会所に案内され、応
に尹老師の知合いの家を訪ねる。主人は不在で
接室で村の上部組織の張徳華・錦屏鎮長と元村長、
あったが孫を背負った奥さんが中庭で迎えてくれ
現村長らと挨拶する。元村長・王正選さんが横笛
た。機織機や藍染の瓶が今も現役であった。辞去
を吹いて歓迎し、若手の現村長がメモを見ながら
後、棕櫚で編んだ背負い子に木材を括り付け、額
村について説明した。
に紐をかけて荷を運ぶ 2 人の女性とこの家の男の
「村は町まで 10km、標高 1,480m、平均気温は
子の後に従って棚田へ向かう。相当な重さだが足
16 度、13 の集落があり人口は 4,998 人(壮族 3,998
早に歩く。ここでも女性が働き者らしい。秋晴れ
人、苗族 615 人、彝族 76 人、漢族 229 人)で年
の農道や田圃の畦道を通り、棚田を修理している
平均収入は 980 元。主食は米、トウモロコシ、小
人達や水牛を使って棚田を耕している人達を観察
麦でタバコ、唐辛子、野菜、落花生、三七人参等
しながら歩く。石垣を積上げ泥を塗り込めて畦を
を栽培している」
造っている。谷川に架かる橋の架け替え工事の現
続いて元村長が補足説明する。「改革・解放後
場まで、2 人は木材を運んで来たのだ。尹老師と
は生活が向上した。共産党政策を村人に普及させ
男の子の先導で隣の集落まで 1 時間ほどの軽いハ
た。壮族は文字を持たないが、伝統文化の踊りと
イキングとなった。集落の外れには今は使われて
道具、仮面劇を大切にしていきたい。元旦には松
いない草葺屋根の水車小屋等があり、また土産物
屋があった。ここは「箐口民俗村」と称して、入
の枝を採り籠に入れ、床に置く。大晦日には、石
場料を取って村の生活を見せていた。
村内を散策した後、学校に戻り校庭で生演奏付
とタニシを家に持ち帰る。」
きのご婦人達の集団演舞を鑑賞。昼休みとみえ大
開遠市~丘北県仙人洞村(彝族村)。11 月 10 日
勢の子供たちや村人が見物するなか踊りも終わ
朝食後、宿舎の滇南大酒店近くの古風な駅舎を
り、記念撮影後、餅つきを実演していた農家に戻
訪れ、
「開遠」という名の鉄道駅のホームに立つ(隣
り遅い昼食(写真 5)
。入口付近で解体していた
国ベトナムのハノイに通じる鉄道の支線)。現在
鯉や鶏が卓上に並び、村のご婦人による歓迎の歌
は貨物列車が 1 日 1 本の運行。
と共に差し出される白酒(茶碗酒)を何回も飲ま
仙人洞村へ向かう途中の集落(白臉村)の広場で、
される。仙人洞一帯は 7000 年前には海であった
我々一行のために準備された彝族の少年・少女に
のが地殻変動で隆起したカルスト地形で、多数の
よる踊りを鑑賞し、仙人洞村(彝族文化生態村)
浅い湖(野生のハスと水草が生えた平均水深は
の民宿「荷花」着。夕食は近くの湖畔の新築間も
3m、最深でも 30m とか)と石灰岩の 70 ~ 80m
ない明るいレストランで、黄さん(前村長)
、範さ
程の小山が林立する特異な景観を見せている。大
ん(現村長)を交えて会食(18° 30' ~ 20° 00')
。前
きな鍾乳洞があることから「仙人洞」村と命名さ
村長や村の娘さん達から声量豊かな歌で歓迎され、
れたが、元の名前は「普者黒」と言ったらしい。「海
乾杯、
乾杯の連続。そして彼我の歌の交歓となった。
老や魚がたくさん捕れるところ」を意味する彝族
会食後、村内の主な家の庭先で演じられる彝族の
の言葉の音に、漢字をあてたものという。
歌と踊りを鑑賞する。4 ~ 5 軒の会場をはしごする。
楽器を奏する人も煌びやかな民族衣装をまとって
仙人洞村。午後、紅河州弥勒市に移動。11 月 12 日
踊る人も皆高齢の男女ばかりに見える。23 時頃、
午前中、羅さんの案内で村内を見学。集落入口
帰館。私達の帰りを待って、
広場で 16 ~ 19 歳の若々
近くの「神の山」に登る。カルスト地形の絶景を
しい男女 10 数人の歌と踊りが披露された。
俯瞰(写真 6)。神山を下り、彝族の一番の神で
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ヒマラヤ学誌 No.11 2010
ある「虎」の石像を中心に 7 つの石像が囲む広場
に表れている 5)。
で、彝族の信仰や伝説について羅さんから説明を
・ 服飾様式;この地域の女性は長くてカラフルな
受ける。
布帯を腰に締める慣習がある。そのため他の民
広場の手前に「水」の神を祀った池があり、水
族から花腰タイと呼ばれている。腰帯に関連す
中に石像が安置されていた。ここは豊漁と、舟の
安全を祈る聖なるところだった。
る様々な文化を生み出している。
・ 居住様式;花腰タイは、自分達の建物を「土掌
「水牛」を象った神像の前に立つ。新年最初に
ご馳走を捧げるという。次に、
「火」の神像、「耕
作」の神像と続き、中央に「虎の神」が立つ。虎
の皮は田、血は川、油は雨、骨は山を意味し、彝
族の精神を表すという。虎神の奥に「天」の神像
が立つ。右目が太陽(男)
、左目が月(女)の形
房」と呼ぶ。(筆者註;シプソンパンナのタイ
族園で見た高床式住居とは全く異なる。)
・ 信仰;花腰タイは、アニミズム的な原始宗教を
持ち、独自の宗教観念と祭祀活動も持つ。
・ 祝日;花腰タイには「赶花街」という独特の祝
日がある。
をしていた。次の「土」の神像は蛇が頭にトグロ
花腰タイにはお歯黒や刺青という慣習が今も残
を巻いていて額に道案内の標識を彫っていた。
「疫
り、タイ語は依然として日常生活の中で重要な言
病」の神像は皮膚病になった顔だった。最後に「虫」
語となっている。原始的宗教の主要な儀式も、他
の神像が立つ。
の地域のタイ族に比べより完全な形で残されてい
これらの石像は、
「村の長老達に何度も何度も
る 4)という。
描いてもらったイメージ(神象)を基に、老師の
現在、この山間の小さな村にも市場経済の波は
友人の美術家が肉付けし石工が彫ったもので、今
押し寄せ、自給自足の伝統的様式からの変化が生
後、50 年、100 年、200 年と時間が経てば歴史的
じている。出稼ぎなどで外に出ることが頻繁にな
遺産になる」と老師がいう。
り、文化的にも益々注目され観光資源化してきて
いる。大型バスも乗り入れることの出来る、道路
盆地世界で想うこと
事情の改善が大きく影響している。
の歴史≫
今も伝わる雲南タイ族の誇り…14 世紀半ば、思
雲南省の最も早い住民は越人と濮人で、越人は
翰法の麗しい時代!
タイ族・チワン族などの祖先という。
雲南西部からミャンマー北部のタイ族を統合し
『史記』や『漢書』などによると、越人は秦代
た思翰法、大モンマウ王国の栄光と哀しみに想い
以前から長江東南の沿海部(浙江、福建、広東、
を馳せたい。1253 年、フビライ率いるモンゴル軍
広西)から雲南、東南アジア北部に至る広範な地
が雲南に侵攻し、大理国を征服。翌年、ウリヤン
域に住んだ古代の農耕民族で、雲南の越人は滇越
ハダイ率いるモンゴル軍が雲南西部地域に侵攻、
といわれた。雲南のタイ族は、滇越を祖先とする
激動の時代を迎える。1340 年頃思翰法の登場(モ
雲南の先住民である 3)。
ンマウ王即位)
、
元の征討軍と激しく戦う。1343 年、
中国のタイ族は、総人口 107 万人余と推計され
思翰法は元の征討軍を破り大理府に至る。1368 年、
(90 年代末)
、そのほとんどが雲南に住む。タイ
元滅亡し明朝建国。1369 年頃、タイ族の英雄・思
雲南のタイ族≪「微笑み」、王国の栄光と哀しみ
語系民族の中で「タイ」を自称する民族は、ミャ
翰法、死去。1381 年、明により大理国滅亡。
ンマー(約 250 万)、
タイ(約 2600 万)
、ラオス(約
明朝による大モンマウ王国(中国では「麓川政
18 万)、ヴェトナム(約 100 万)等に居住している。
権」という)征討は、1441 年から 1448 年まで三
タイとは 犂 を意味し古代から水稲耕作を営み 、
度繰り返されたので「三征麓川」という。第一征
今回訪問した「花腰タイ」は今も精霊信仰を持ち
には国家財政の半分を投じて兵 15 万を集めたと
続けている。
いう。この間、王位にあった思昴法の活躍と戦い
紅河流域のタイ族はおよそ 15 万人、そのうち
敗れ身を寄せた先での悲劇的最後(第一征)、王
半分以上が新平県と元江県に住む。この地域に住
位を継いだ弟の思机法の奮戦と敗走(第二征)と
む花腰タイ独特の文化的特徴は、主に 4 つの側面
抵抗は続いたが、モンマウは第一征で実質的に明
3)
― 227 ―
雲南の山地少数民族の村々を訪ねて 2008 年秋(前田栄三)
に軍事制圧された。
「三征麓川」という長く激し
荒廃し、「大躍進運動」(土法煉鋼炉と公共食堂の
い戦いにより、雲南西部のタイ族は明の統計に
燃料材)により根こそぎにされた、言わばダメ押
よっても 30 余万の人口を失い、征討軍の将軍に
し的な森林破壊、荒廃。(p453)
土地を奪われた。現在の徳宏州への漢族移住もこ
・1981 年に公布された「三定事業」政策が軌道に
の時から始った 3) という。尹老師の先祖は、「三
乗るにつれ、盆地の周囲で『ユーカリ植栽』が拡
征麓川」に 2000 人程度の兵を率いて従軍した明
がった。この「事業」で山林の 1 部が「自留山」
朝の将軍という。そのまま騰沖に留まり雲南の漢
として各々に分配され、政府の指導・援助を受け、
族となった。
農民自ら植林を行い、生産物を販売出来ることに
タイ族がモンマウと呼ぶ瑞麗江のほとり、今の
なった。(p455)
瑞麗市には 2007 年に訪問したが再び三度立ちたい
・
「自留山」へのユーカリの植林は、農民には貴
と思う。元朝そして明朝が押さば引き引かば押し、
重な現金収入(ユーカリ油、薪炭材、建材)であ
外交的恭順と征討軍の撤退と共に始まる反攻(失
り、その結果、中標高盆地周辺ではユーカリの植
地回復)を繰り返す様は、近現代のタイ王国のし
林が急速に進行することになった。漢民族の中標
なやかで強靭な外交を彷彿とさせる。明朝の屯田
高盆地におけるユーカリ植林は、「三定事業」の
制による兵糧・兵站の確保、新兵器(火器、火砲)
成果である。(p456, 463)
(編集・転載終り)
による象陣の攻略そして攻城…が決定的な軍事的
勝因である。各地のタイ族も四分五裂し、1604 年
中標高盆地の植生の将来にユーカリが重なり、
に至り名実ともにモンマウ王国は終焉した。
暗澹たる気持ちに陥るばかりである。漢民族とは
何か! 秦漢帝国誕生以来、
『中華帝国に帰属す
ユーカリの植林
る民=漢族』という意識付け! 秦の巴蜀攻略が
衛星写真から見る雲貴高原は見事な草山、畑地
紀元前 316 年、前漢の武帝の時代の前 112 年南越
と化している。哀牢山以南は未だ森林が残されて
攻略、そして前 109 年の雲南攻略。更に時代は降っ
いる。ミャンマー北部とラオス北部は、森林が色
てフビライ&ウリヤンハダイ率いるモンゴル軍の
濃い。
雲南侵攻、明朝による雲南制圧…、そして漢族の
紅河の河岸ではユーカリを眼にすることは無
大量入植!
かったが、蒙自から弥勒に向かって北上する車中
植生の復活に希望もある。本質的な話ではない
からは、次第次第にユーカリが眼に入り始め、植
が、尹老師によれば、福建省や湖南省では農民が
林・育林が大規模に進められている様子が顕著と
大量に都市部に移動した結果、畑地と化した山々
なった。何ゆえ雲南にユーカリが植樹されるのだ
に緑が戻って来ているという。
ろう? 異様な景観としか言いようがない。車窓
低標高盆地に住む雲南タイ族の村、緑豊かで穏
から見る山々は畑地と化し、原植生の面影はない。
やかな生活風景が殊の外に心に響き沁み入る。雲
以下、京都大学東南アジア研究センター編「東
南タイ族の文化や生態そして歴史をもっともっと
南アジア研究 Vol.35 No.3」にある、阿部健一『雲
知りたいと思う。低地に居住しているという利点
南の森林史(Ⅱ)―中標高盆地の森林破壊とユー
が漢民族の流入を抑止し、今後とも自然と共生し
カリ植林―』より抜粋して編集・掲載する。
た生態、文化と伝統の継続した維持保全を確固な
・ 漢 民 族 の 雲 南 へ の 大 量 移 住 と 標 高 1300m ~
ものとしつつ、緩やかな経済的発展を祈りたい。
2500m の中標高盆地での漢民族の優占。雲南省の
盆地の大部分がこの中標高の盆地(全盆地面積の
謝辞
77.3%)となっている。
(p447)
2007 年 9 月末、バンコクにいた私は留守宅に 1
・漢民族による盆地周辺地域の徹底的な伐採、利
本の電話をいただいた。電話の主は京都大学の山
用できるものは徹底して利用するという姿勢。
田勇名誉教授。雲南大学の尹紹亭教授(当時、東
これが漢民族の主な居住空間である中標高盆地周
京外国語大学客員教授)を紹介いただいたのはこ
辺の顕著な森林破壊に至る。(p448, 463, 464)
の時である。山田名誉教授には 2007 年 4 月の雲
・更に今世紀の「長期化した日中戦争」で山林は
南懇話会で、尹紹亭教授には 2008 年 6 月の懇話
― 228 ―
ヒマラヤ学誌 No.11 2010
会でご講演をいただいた。尹老師とは 2009 年秋
(5)11/6(木)
新平市から建水、個旧市を経て山上(標高
に再び雲南の少数民族の村々を訪問する予定であ
約 2000m)の苗族の村へ移動。21 時頃到着。
る。お二方には深甚なる感謝を申し上げる次第で
個旧より紅河州苗族会長が同行。
ある。京大探検部 OB の山田名誉教授を紹介いた
だいた同 OB 会長の沖津文雄 AACK 会員、愛媛
苗族村一番の民家 泊
(6)11/7(金)
苗族の葬儀を視察。蒙自へ移動して昼食。
大学名誉教授で滋賀県立大学名誉教授の荻野和彦
紅河州博物館訪問。
AACK 会員にも感謝を申し上げます。
蒙自市天源酒店 泊
(まえだ えいぞう、
新日鉱ホールディングス(株)社友)
(7)11/8(土)
午前中、蒙自より移動。数ヶ所で棚田観察。
元陽県雲梯大酒店 泊
参考 1
雲南懇話会 第 5 回 Field Work、日程等
(8)11/9(日)
棚田観察、畦道を歩き蛤尼(ハニ)族村 2
1.期 間:2008 年 11 月 2 日(日)~ 2008 年 11 月 15 日(土)
、
か所訪問。昼食後、開遠へ移動。
全 14 日間
開遠市滇南大飯店 泊
2.訪問先;
(1)玉渓地区新平県腰街鎮南碱村・花腰タイ族(文
(9)11/10(月)午前中、開遠より移動。丘北市で壮族副学
化生態村)
会長・サニ族学会長らが加わり、会食。そ
(2)元陽県梯田鎮・蛤尼(ハニ)族の村 2 か所
の後一緒に彝族の村を訪問して、少年少女
(3)文山州丘北県仙人洞村・彝(イ)族(文化生
15 人の演舞を視察。夜、仙人洞村村長(現
態村)と白臉村(彝(イ)族)
職と前職)らと晩餐会。彝族の演舞を数ヶ
(4)丘北県錦屏鎮碧松鷲村・壮(チワン)族の村
(5) 新 平 市 か ら 個 旧 市 を 経 て、 山 上( 標 高 約
所で鑑賞。
丘北県仙人洞村民宿 泊
(10)11/11(火)壮(チワン)族村訪問。壮族学会長・錦屏
2000m)の苗族の村( 卡 房 鎮 )
鎮長らが加わり、民族楽器の演奏、民族衣裳
3. 参 加 者( 敬 称 略 )
:Leader 亀 田 義 憲、SL 前 田 栄 三、
姿の婦人多数の演舞、機織り等生活の一端を
Coordinator 秋畑 進、岡 邦俊、神山 巍、齋喜國雄、
松島岳生 計 7 名
視察、昼餐会。
丘北県仙人洞村民宿 泊
(11)11/12(水)仙人洞村(彝族文化生態村)滞在、神山を
4.中国側参加者
登る。
(元)丘北県旅游局長 羅樹昆さん直々
雲南大学民族研究院
尹紹亭 教授
雲南大学民族研究院
張 海 博士研究生(英語通
の説明を受ける。昼食後、一大リゾート地
訳、記録)
雲南大学民族研究院
曹津永 修士研究生(英
語
通訳、兼中国側 Coordinator)
雲南師範大学外語学院
に移動。
弥勒市湖泉酒店 泊
(12)11/13(木)石林訪問。昼食後、昆明へ。
昆明・雲南大学ホテル 泊
(13)11/14(金)自由行動。夜、Farewell Party
宋旭艶 学部 4 年生(女性の
日本語通訳)
雲南大学ホテル 泊
(14)11/15(土)昆明発~帰国
(元)文山州丘北県旅游局長 羅樹昆(苗族、彝族、壮族
の村の案内兼調整役として同行)
参考 2
文化生態村とは?
雲南大学人類学系教授の尹紹亭氏を中心とするグループ
5.日程と訪問先
が、雲南の少数民族文化を創造的に伝承する運動を行ってい
(1)11/2(日)
成田~昆明着
昆明・雲南大学ホテル 泊
る。その活動の成果は、
『
「民族文化生態村―雲南試点報告」
尹紹亭編』2)として 2002 年に報告されている。
(2)11/3(月)
雲南民族博物館、雲南民族村訪問。
昆明・雲南大学ホテル 泊
彼らの目的は、急速な経済発展に伴う変化の中で、雲南の
(3)11/4(火)
午前中移動、新平県宣伝部長(彝族)らを
少数民族が内発的にその生活環境と文化を守り育てることで
交え昼食。タイ族文化生態村訪問。夜、文
ある。彼らが取った方針はユニークである。従来行われてき
化生態村村長らと会食。
た博物館による文化展示の方式には限界がある。また外部者
新平県腰街鎮・花腰タイ族村 泊
が独断的なモデルを導入する方式は、文化を破壊する危険が
(4)11/5(水)
タイ族文化生態村滞在。昼食後、県城に移
大きい。そこで、彼らは村人と徹底的な討論を行い、村人の
動。
新平県鑫源酒店 泊
自発的な発想を引き出すことを始めた。環境と文化伝統を生
― 229 ―
雲南の山地少数民族の村々を訪ねて 2008 年秋(前田栄三)
かし、継承し、発展に有効で必要な課題を一つ一つ洗い出し、
8)
加藤久美子、2000 年「盆地世界の国家論―雲南、シ
プソンパンナーのタイ族史―」京都大学学術出版会
その実施を村人の主体性に任せる方法をとった。
9)
川野和子、1997 年「中国 魅惑の雲南」新評論
民族文化生態村は、以下の 5 箇所である。
10)尹紹亭 編、2006 年「人類学生態環境史研究」中
・玉渓市新平県腰街鎮南碱村・花腰タイ族
国社会科学出版社
・文山州丘北県仙人洞村・彝(イ)族
11)斎喜國男、2009 年「第 5 回フィールドワーク『行
・昆明市石林県月湖村・彝族
動記録』
」雲南懇話会ホームページ
・西双版納州景洪市巴カ村・基諾族
12)秋畑 進、2009 年「第 5 回フィールドワーク『秋畑
・保山市騰沖県和順郷・漢族
五つの村では 1998 年以来、次のような活動を行ってきた。
1.生活環境の改善:民居・村の道路・水道・水路・トイレ
の改築、バイオガス装置の各戸設置
2.文化伝習館の建設と展示
3.伝統の創造的復活:歌舞、紡織、刺繍、楽器の製作、対
歌の復活
4.伝統宗教儀式の再生と神々の雄渾な表象の石像製作
5.植樹、植竹、水田改良、新作物の導入
その結果、村の住環境や経済の進展に目に見える効果が現
れ、地域発展の新たなあり方として、中国(雲南省、党中央
の委員会など)で注目を集めている。
(NPO 法人 平和環境もやいネット(理事長;古川久雄 京都
大学名誉教授)のホームページから、同法人の承諾を得て、
抜粋して転載しました。
)
参考文献
1) 京都大学東南アジア研究センター、1997 年「東
南アジア研究 35 巻 3 号」p314 ~ 334, p343 ~ 345,
p346 ~ 369, p445 ~ 464
2) 尹紹亭 編、2002 年「民族文化生態村―雲南試点
報告」雲南民族出版社 p1 ~ 28, p80 ~ 128, p214
~ 256(豊富な写真、図面を含む)
3) 古島琴子、2001 年「雲南 タイ族の世界」創土社、
p7 ~ 10, p48 ~ 99
4) 伊藤清司、1985 年「中国民話の旅から―雲貴高
原の稲作伝承―」NHK ブックス、p187 ~ p192
5) Zheng Xiaoyun、2002 年「国立民族学博物館研究
報告 26 巻 3 号」p449 ~ 472
6) UNESCO、2000 年『PROCEEDINGS OF TRAINING
WORKSHOP』ON THE TRANSMISSION OF
TRADITIONAL TECHNIQUES OF CUSTUMEMAKING OF THE MIAO/HMONG PEOPLE LIVING
IN CHINA, LAOS, THAILAND AND VIETNAM,
Kunming, China 2000
7) 姚荷生、多田狷介訳、2004 年「雲南のタイ族―
シプソンパンナー民族誌―」刀水書房
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日記』
」雲南懇話会ホームページ
ヒマラヤ学誌 No.11 2010
Summary
Visiting the Ethnic Cultural and Ecological Villages in Yunnan, China
Eizo Maeda
The Academic Alpine Club of Kyoto
In Autumn season of 2008, we visited Yunnan province of China, for 2 weeks. During this time, We visited two
‘Ethnic Cultural and Ecological Villages’and Miao Village, Chiwan Village and Hani Village as ethnic minorities.
Our visiting village of‘The Ethnic Cultural and Ecological Villages’are Nanjian Huayao Dai and Xianrendong Yi
Ethnic Cultural and Ecological Village.
We visited these villages with Prof. Yin Shaoting of Yunnan University and his scholars.
The Conception on the Ethnic Cultural and Ecological Village was proposed to set up by Prof Yin Shaoting’s
Group, in 1997.
Nowadays, in case of the Nanjian Huayao Dai Village, we found that the village has been greatly improved
sanitary and living conditions, economic development and ecological resource utilization, as well as the protection
and transmission of their culture.
I would like to explain briefly the outline of the above villages and my own impressions during my stay in
Yunnan, China.
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