情報教育におけるメディア・リテラシーの可能性 - 慶應義塾大学 湘南藤沢

情報教育におけるメディア・リテラシーの可能性
斎藤俊則*,大岩 元**
慶應義塾大学環境情報学部
〒252-8520 神奈川県藤沢市遠藤 5322
e-mail: [email protected] [email protected]
概要
本稿 では、 メディア・リテラシー的な観点から構想される情報教育の教育内容を提案するとともに、その実践
における 可能性 と問題点を教育実践事例を手がかりに論ずる。 まずはじめに本稿での提案に至った経緯として情
報教育 における 「情報観」の問題に焦点を当てた議論を行い、 <人にとっての情報>の観点からの情報教育の必
要性 を主張する。 さらに、 そのような観点からの情報教育の具体的な教育内容として記号学を論拠とするメディ
ア ・ リテラシーの導入が適当であることを提案するとともに、 その教育内容の概要を説明する。さらに、筆者の
一人 が 大学学部生に向けて行った教育実践事例を取り上げ、 そこで得られた受講者の自由記述アンケートに対す
る 質的な解釈を手がかりに、 メディア・ リテラシー的な観点による情報教育のポジティブな可能性と問題点の双
方についての考察を示す。
1. はじめに
本稿では情報教育にメディア・リテラシーの
観点を取り入れることによってもたらされるで
あろう可能性を論ずる。前半では「メディア・
リテラシーの観点の情報教育への導入」に関し
て筆者らがこれまでに行ってきた主張を整理し、
さらにメディア・リテラシーそのもののあり方
に関する筆者らの立場を明らかにする。後半で
は、筆者の一人が大学学部生に向けて行った
「情報教育の一環としてのメディア・リテラシー」
の授業実践を報告するとともに、その授業実践
の結果を手がかりに情報教育においてメディア・
リテラシーの観点が果たしうる意義を考察する。
2. 情報教育における<人にとっての情報>
2.1. 情報教育における「情報観」
筆者らは高等学校における普通教科『情報』
の教員養成の問題に関連して「情報教育の依拠
すべき情報観」の再検討の必要性を主張してき
た 1)。ここでいう情報観とは、情報教育の教育
内容全般を議論するにあたっての、その前提と
なる「情報」という概念の捉えかたである。実
施されてから日が浅いこの教科が固有のアイデ
ンティティを持つ教科として教育現場に普及・
定着していくためには、教科が依って立つ“土
台”を構築する作業が必要である 2)。教育内容
の前提となる情報観とはこの“土台”の役割を
果たす。普通教科『情報』の定着は、個別的な
教育内容の背景にある“土台”としての情報観
を学んだ教員たちが現場に立つことによって初
めて実現される。筆者らはそのような意味で、
情報観を明示的に議論することの必要性を訴え
てきた。
この主張は情報概念に対する統一的な定義を
与えることの必要性を訴えるものではない。周
知の通り、情報は様々な文脈の中で多義的に用
いられる概念である。仮に「情報教育における」
という限定を与えたとしても、統一的な定義を
与えることは非常に困難であり現実的ではない。
また、そうすることの利点よりも教育内容の硬
直化などの弊害の方が大きいと予想される。
むしろ筆者らの主張は、情報概念の捉えかた
の多様性・文脈依存性を前提とする。本来多様
である情報概念の捉えかたの中で、普通教科
『情報』を構成するそれぞれの教育内容はどの
ような捉えかたに依って立つものなのか、ある
いは依って立つべきなのか。この点に関する議
論の必要性は、普通教科『情報』に限らず、小
学校から大学に至るまでのあらゆる場面での情
報教育の議論についてあてはまる。情報教育の
教育内容の構築・改善を試みるにあたっては、
このような根本的な点に関する議論を避けるべ
きではない。
2.2. <人にとっての情報>の観点
筆者らはさらに「情報教育の依拠すべき情報
観」についての提案も行っている。この点に関
する筆者らの主張は<人にとっての情報>とい
うキーワードによって示される。
情報教育が従来の技術教育の一環としての情
報処理教育の縮小版ではないという認識は、近
年、普通教育としての情報教育の普及とともに
広まりつつある。このことは、たとえば学習指
導要領が普通教科『情報』の内容として、「情
報化」の進展が「社会」や「生活」に及ぼす影
響を明確に位置づけている点からも伺うことが
できる 3)。
ここで問題となるのは、情報と社会や生活、
ひいては情報と人間との接点を捉えるにあたっ
て、いかなる情報観がありうるかという問題で
ある。国内では情報教育に関する議論が主にコ
ンピュータとの関連で行われてきた経緯からか、
その教育内容を自然科学、とりわけ情報工学的
な立場から捉える傾向が強い。
情報と人間との接点については情報工学のみ
ならず、人文・社会科学においても考察の対象
とされてきた経緯がある。これらの学問におい
て見いだされる情報の姿は情報工学の中で見い
だされるそれとは異なっており、本来、それぞ
れが補完することで情報教育の情報観はより厚
みのあるものとなるはずである。筆者らは、こ
れまでに情報教育の教育内容の議論において十
分反映されてきたとは言いがたい人文・社会科
学の観点からの情報観を<人にとっての情報>
と名付け、情報教育にそのような観点から構築
される教育内容を導入することを提案してきた。
2.3. <人にとっての情報>と情報の生産・活
用に対する内省の視点
<人にとっての情報>の観点が情報教育にも
たらす可能性の中で筆者らがもっとも重視する
のは、情報を生産・活用(あるいは収集・加工・
編集・発信)する行為に対する内省の視点の確
保である。たとえば工学的な発想のみから情報
教育を考える場合、情報とはまず第一に生産・
活用といった操作の対象としてその実在がアプ
リオリに想定される。そして、そのような想定
の元で発想される教育内容は、いかに効率的・
効果的にこれらの操作を行うことができるかと
いう点に結びつく。それに対して、たとえば哲
学や言語学においては、情報の客観的な実在性、
すなわち情報が操作の対象としてあるというこ
と自体が疑われる。また社会学の文脈において
は、情報生産や情報発信といった行為が不可避
に孕む政治性が問題とされる。これらは情報に
対する工学的な取り組みを別の角度から見直す
視点である。情報教育においてもっぱら工学的
な対象としてのみ扱われがちな情報の問題を上
述のような視点から見直す営為は、情報と人間
(ないしは文化、社会)のと関係を理解するう
えで本質的である。したがって、これからの情
報教育には、<人にとっての情報>の観点がも
たらす「別の角度」の視点を、工学的な取り組
みに対する内省の視点として身に付けていくた
めの教育内容が含まれるべきである。
3. 情報教育の教育内容としてのメディア・
リテラシー
3.1. <人にとっての情報>とメディア・リテ
ラシー
それでは<人にとっての情報>の観点からの
情報教育としては、具体的にはいかなる形の実
践を考えることができるのか。筆者らによる
「メディア・リテラシー」に関する提案は、<
人にとっての情報>の観点に立脚した情報教育
の一つのあり方を示そうとするものである。
メディア・リテラシーは、広義には、メディ
アを活用する能力とその能力を育むための取り
組みの双方を指す概念として理解される 4)。こ
こで言う「メディア」の範疇や「メディアを活
用する能力」については幅広い解釈を与えるこ
とが可能であるが、メディアを対象とする教育
に早くから取り組んできたイギリスやカナダな
どでは、特に「意識産業」としてのマスメディ
アの影響下にある視聴者の主体性の確立が主題
とされる 5)。そこから、メディア・リテラシー
という語は多くの場合、メディア機器を操作す
る能力のみをさすのではなく、メディアから得
られる情報に対するクリティカルな判断力など
も含意して用いられる 6)。
<人にとっての情報>の観点からの情報教育
を構想するにあたっては、メディア・リテラシー
の取り組みから多くの点を学ぶことができる。
先程議論した通り、<人にとっての情報>の観
点からの情報教育においては、情報を生産・活
用するスキルだけでなく、それらの行為に対す
る内省の視点の確保が重視される。これはメディ
ア・リテラシーにおける「クリティカルな判断
力」と相通ずるものである。その意味で、メディ
ア・リテラシー(およびその背景にあってメディ
ア・リテラシーの概念形成に寄与してきた言語
学、メディア論、社会学等の学問)において蓄
積されてきた学問的なリソース(たとえばメディ
アを分析・批評するための概念・手法等)は、
<人にとっての情報>の観点からの情報教育の
実践を構築するうえで大いに示唆を与える。さ
らに、従来のメディア・リテラシーは主にマス
メディアを取り組みの対象として想定してきた
が、現在の情報メディアの普及状況を考慮する
ならば、そこには必然的にコンピュータ・ネッ
トワーク等が加わることになる。この点からす
れば、情報教育とメディア・リテラシーの距離
は将来的にはますます近いものになっていくこ
とも予想される。
3.2. メディア・リテラシーの主題と実践にお
いて見いだされる問題点
情報教育にメディア・リテラシーのアプロー
チを導入するにあたっては、メディア・リテラ
シーの教育実践においてすでに指摘されている
問題点を踏まえる必要がある。その問題点とは
主に「情報に対するクリティカルな判断力を養
う」という主題に関連するものである。
佐賀は、スコットランドにおけるクリティカ
ルなメディア視聴を主題とする教育実践事例を
レビューしつつ、以下のような問題点を指摘し
ている 7)。
・コースの到達点がどこであり、学習の意味
がどこにあるのかを学習者自身が把握でき
ない
・学習成果の観点から、どの程度まで教育の
目標群を設定すべきなのか、あるいは目標
の達成ではなくて思考を深くすること自体
を強調すべきなのか
・目標が設定されたとしても信頼できる評価
手段があるのか
これらの問題点は、根本的には「クリティカ
ルな判断力」が能力として客観的には定義しづ
らいことに起因する。この点に関しては、国内
の教育実践研究においても同様の指摘が行われ
ている。たとえば三宮は、授業において「批判
的思考」の育成を行うことの難しさや、そもそ
も「批判的思考」の定義が必ずしも明確でない
ことなどを指摘したうえで、「批判的思考も含
めた、より包括的な概念」として「合理的判断
力」という語を用い、その育成に向けた教育内
容の提案を行っている 8)。
近年、メディア・リテラシーの取り組みが普
及しつつある国内の現状からは、メディアや情
報に対するクリティカルな判断力を育むという
理念のレベルにおいて、この取り組みの意義や
必要性に対する理解が徐々に広まりつつあるこ
とが推測される。しかしながら、主に「クリティ
カルな判断力」の定義の難しさに起因すると考
えられる上記のような問題点は、理念に対する
支持とは別に、メディア・リテラシーの具体的
な教育実践に対して教育現場が消極的になる要
因として作用する(あるいは、現にしている)
ことが考えられる。
3.3. 問題点に対する筆者らの立場
上述の問題点に対する現在の筆者らの立場を
あらかじめ示す。次節以降で示される、筆者ら
によるメディア・リテラシー的なアプローチを
導入した情報教育の教育実践の提案と実践事例
は、下記の立場に依拠するものである。このよ
うな立場は実践の事前の段階である程度見いだ
されていたものであるが、むしろ今回の実践の
結果を通して得られた知見としての側面が強い。
・クリティカルな判断力は、自己の行為の意
味を内省を通して相対化する能力として位
置づけられる
・客観化された目標の達成よりも思考を深く
することを強調する
・学習成果の評価は量的な達成度より質的な
側面の変化に注目しながら行う
4. メディア・リテラシー的なアプローチ
による情報教育の提案
4.1. 提案の要点
情報教育を構成する教育内容としてメディア・
リテラシーを導入するにあたり、筆者らは特に
以下の点を提案する。
・教育対象の「メディア」には、従来強調さ
れてきたマスメディアの他に電子メディア
やコンピュータ・ネットワークが含まれる
・(能力としての)メディア・リテラシーと
は、自己とメディアとの関係を主体的に構
築する能力として位置づけられる
・育むべき「クリティカルな判断力」は、メ
ディアから得られる情報に対して向けられ
るものであると同時に、メディアを利用す
る行為に対して向けられるものでもある
・メディアに対するクリティカルな判断力の
本質は、メディアの活用に関与してそのあ
り方に影響を与える様々な文脈を読み取り、
メディアとの関わりを相対化する能力であ
る
・「クリティカルな判断力」を育むためには、
メディアの活用の相対化を試みる際に、そ
のよりどころとなる理論的な枠組み自体を
教育する必要がある
4.2. 論拠としての記号学
筆者の一人は上記の観点に立ったメディア・
リテラシーのテキストブックを執筆し出版した
9)。
そのテキストブックの示すカリキュラムにお
いては、メディアを分析する際の論拠として記
号学が取り上げられている。筆者らは、従来の
多くのメディア・リテラシーの実践事例がそう
であるように、具体的なメディアテクストの分
析を通した学習を重視する。ただしその学習は、
個別的なメディアの特性に関する知識を得るこ
とではなく、多様な形態のメディアに対処する
ことができる認識の枠組みの形成に向けて行わ
れるべきであると考える。そのような観点から、
メディアテクストの分析に先立って、記号学の
基本概念の学習を必須事項として位置づける。
記号学の視点からはメディア利用は以下のよ
うに把握される。
・情報は人間の主観による働きかけ(メディ
アが運ぶ記号の分節)によって発生する
・メディアの視聴・利用は主観的な行為であ
ると同時に社会・文化のコンテクストに規
定された社会的な行為でもある
・メディアが運ぶ表現のみならずメディア自
体もまた記号として了解される
これらの視点に則った教育内容として、筆者
らは特に以下の点を強調する。
・理論的枠組としての記号学の基本概念の教
育
・記号学の視点からのメディアテクストの分
析・読解
・「日常的なメディア利用のあり方」の考察
と相対化
5. 大学の情報教育におけるメディア・リ
テラシーの実践
5.1. 科目について
筆者の一人は大学の情報教育科目の中で上記
の観点からのメディア・リテラシーの授業実践
を行った。ここでは2003年4月に実施され
た授業実践の概略を紹介する。
獨協大学経済学部経営学科では、学部1年生
向けの学科基礎科目(事実上の必修科目)とし
て「コンピュータ入門 a・b」が開講されている。
筆者の一人は非常勤講師として、前期に開講さ
れる「コンピュータ入門 a」(週1コマ・90分)
を2クラス(受講者はそれぞれ A 組44名、B
組43名、但し A 組 B 組は仮称)担当した。
この科目は、大学が配布するシラバスに記載
された「講義目的および講義概要」によれば、
「現代社会で必要不可欠なコンピュータネット
ワークの仕組みについての概要を講義し、学部
学生が4年間の学習、研究生活を通じて必要と
されるコンピュータとネットワークに関して、
実習を通して基礎的技術を養うこと」を目的と
するものであり、コンピュータの操作能力や原
理の理解を中心とする「情報リテラシー」の養
成科目として位置づけられている。
メディア・リテラシーの観点からの授業実践
は、この科目の導入期にあたる第1回から第3
回までの間に行われた。この3回の実践の主題
は「<シンボル>としてのコンピュータ」であ
る。この主題は人間の主観の中に形成された<
シンボル>、すなわち記号としてのコンピュー
タの存在を指す。この主題の背景には次のよう
な前提がある。
・ユーザのコンピュータに対する態度や活用
形態はそれぞれの主観によるコンピュータ
に対する意味づけに規定される
・コンピュータに対して与えられる意味は社
会的な過程によって構成される
さらにこれらの前提から、次のような授業実
践のねらいが設定される。
・受講者が無意識のうちにコンピュータに対
して特定の意味づけを行っていることに気
づく
・各自がコンピュータに対していかなる意味
を与えているのかを読み取る
・各自が自己の主観の中にある「<シンボル
>としてのコンピュータ」を相対化する作
業を通じて、コンピュータの操作実習を
「新たなメディアの可能性の模索・獲得」
の過程として捉える
5.2. 授業実践の進行
メディア・リテラシーを意識した授業は、こ
の科目の第1回目∼第3回目までの間に行われ
た。
<第1回>
3回の実践は、授業第1回に実施された自由
記述式アンケートにおける「Q 現在のあなた
にとってコンピュータとはどんな存在ですか」
という問いかけから始まった。受講者のコンピュー
タに対する意味づけの内容を把握するための問
いかけであったが、得られた回答からは、受講
者の多くがコンピュータを特に以下の事柄との
関連から捉えている様子が読み取られた。
・情報収集、コミュニケーション
・便利さ
・必要性
・使いこなすこと
・難しさ
<第2回>
第2回は第1回のアンケートの回答を相対化
する作業として組み立てられた。まず第1回の
アンケートの結果を元に、筆者が「コンピュー
タが象徴するもの」というタイトルで図解を作
成し(図 1)、第2回の講義の中で受講者に提
示した。
図 1. コンピュータが象徴するもの
上述の結果を元に「情報収集、コミュニケー
ションの手段」「<便利さ>と関わる存在」
「<必要性>と関わる存在」「<使いこなす>
べき存在」「<難しさ>と関わる存在」という
5つの「コンピュータのイメージ」を取り上げ、
それぞれについて「違う見方」が可能である
(“意味”であるがゆえに絶対化されえない)
ことを実例と問いかけを交えつつ講義した(た
とえば、コンピュータは「情報収集」だけでな
く「情報生産」にも関与する、など)。さらに、
これらのイメージが何によってもたらされたの
かという問いかけから、マスメディアとの接点
を示唆した(A 組、B 組双方の受講者からテレ
ビドラマやマンガ、CM の影響を指摘する回答
があった)。
<第3回>
第3回では前回の学生からの指摘を受け、筆
者がコンピュータに関する雑誌広告の実例(図
2)を持参し、各自のコンピュータのイメージと
の関連性を読み取る実践を試みた。
図 2. 読解対象の広告 10)
まずはじめに対象となる広告をディスプレイ
で示しつつ「1.この広告は、コンピュータの
どのようなイメージを物語るのか」「2.その
ようなイメージが読み取られてしまうのはなぜ
か」という問いを提示し、自由記述で回答させ
た(作業時間は10分間)。次に、他の6例の
広告を示しつつ、広告から読み取られる印象に
ついての記号学的な解説を行った。説明の概略
は以下の2点である。
・広告から読み取られる印象は、読み手の側
が暗黙のうちに抱いているコンピュータの
一般的なイメージをコンテクストとして引
き込みつつ、それとの「対比(差異の原理)」
によって生まれる
・広告は商業的な意図から、そのような読み
手の側のコンテクストを予測しつつ制作さ
れる
最後に、冒頭で読解対象とした広告を再度同
じ問いによって読み解かせた(作業時間は10
分間)。回収された回答は A 組 42 件、B 組 41
件であった。
6. 雑誌広告の読解の結果から
上記の3回の授業実践において特にメディア・
リテラシーの色彩が強いのは、第3回の雑誌広
告の読解である。この読解に関して受講者によっ
て提出された回答から導かれた解釈を示す。
6..1. 演出と効果について
回答から読み取られる全体的な傾向としては
特に次の2点が指摘される。
・すべての回答でコンピュータに対するポジ
ティブなイメージが読み取られた
・ポジティブなイメージを読み取った要因と
して「女性」を指摘する回答が多かった
まず第一に、回収したすべての回答において、
読解対象の広告からコンピュータに対する何ら
かのポジティブなイメージを読み取ったことに
ついての言及があった。表現の仕方は様々であっ
たが、特に広告の写真に見られるコンピュータ
の利用場面が明るくカジュアルでリラックスし
た雰囲気を醸し出していたことや、何かしらの
便利さを感じさせるものであった点について、
多くの受講者が特に強い印象を受けたことが伺
われた。
また、上記のポジティブな印象と関連づけて、
広告写真の中の「女性」の存在を指摘する回答
が多く見られた(A 組、B 組とも 18 件)。特に
以下の 3 例のように、広告から受ける印象を
「若い女性の笑顔」とコンピュータとの組み合
わせが「パソコンの簡単さ」を強調するという
形で説明する回答が主流を占めていた。
釈しようとしていたことが読み取られる。すな
わち、受講者たちははじめから、広告には何ら
かの演出が施されているものと考えている。そ
して、そこから読み取られる印象は、そうした
演出が根拠として作用することによって生ずる
ものと考えているのである。
6.2. 「対比」の発見について
受講者による回答は、筆者が行った「対比
(差異の原理)」に関して何らかの言及があっ
たものとそうでないものに別れた。件数は「言
及のあったもの」は A 組 19 件、B 組 24 件、
「言及のなかったもの」は A 組 23 件、B 組 17
件である。以下回答の中から、言及があったも
のとなかったものを順に、それぞれ 2 例ずつ挙
げる。
[例 4] パソコン は私の中で難しく、 親しみ苦い(原
文まま)イメージがあり、それを考えると、パソコ
ンに向き合うとき、しかめ面をしている気がします。
だから、わからないながらパソコンに向かっている
のをみるとしたしみやすさをかんじてしまうのかも
しれない(A 組・女性・2 の問いに対する回答)
[例 5](1 の問いで「ノート PC でもディスクトップ
(原文 まま ) と同じことができる、 PC は日常生活
で手軽に楽しめるものだ」と回答したことについて)
ノート PC は、 手軽だが、 ディスクトップより劣る
ようなイメージがあるのではないか。(簡単)手軽
には 、 楽 しめないものと (PC) を 把握 しているから
ではないのか(B 組・男性・同上)
[例 3] 若 い 女性(←原文では下線がある)が楽しそ
うに使っているから誰でも簡単に使えそうな印象を
[例 6]( 1 の 問 いで 「僕 たちに 身近なものであるこ
受ける...(A 組・女性・2 の問いに対する回答)
とをアピールしている」と回答したことについて)
売るための戦略、家族(原文まま)になくては、時
[例 2] 女 の 人がパソコンを使用しているところを示
代についていけないような口調(A 組・男性・同上)
すことで「簡単に使用できる」ということを主張し
ているのかなと思った。(なぜなら)パソコンは、
[例 7] 楽 しそうに見えました。 広告の中の人の笑顔
仕事で男の人が使うか、できる女の人が使うという
からです...(B 組・女性・同上)
イメージがあるから(B 組・女性・同上)
[例3 ] パソコンには、広告とは反対に、男が使うと
いうイメージが有るし、普段パソコンを使う状態は
薄暗くて地味なイメージが有る。広告はそういうパ
ソコンの持つネガティブなイメージの反対を狙った
物だと考えられる(B 組・男性・同上)
上記の回答の傾向からは、ほとんどの受講者
が広告を「演出とその効果」という枠組みで解
この結果については、授業という場の性質を
第一に考えると、「教師の意図」に忠実であっ
たか否かという見方をすることが可能である。
すなわち、受講者による「対比の発見」は、教
師の意図に忠実であろうとしたことによっても
たらされた結果であるという見方である。この
ような可能性を考える場合、特に「対比の発見」
をしようとした受講者の行動については、必ず
しも「クリティカル」な態度による読み取りを
行ったと評価されるものとは限らない。
ただしこのことが、教育実践の効果として即
座にネガティブな意味として捉えられるべきか
どうかは別問題である。授業という集団的な学
習形態において、果たして教師による示唆を完
全に排除した形で学習活動が起こるのか。この
点に関しては後考察においてに再び触れること
にする。
7.考察
上記の解釈を踏まえ、メディア・リテラシー
的アプローチによる情報教育の可能性について
の考察を示す。
コンピュータのイメージの相対化の可能性
獨協大学における実践の主題は「<シンボル
>としてのコンピュータ」であった。3回にわ
たる実践において、コンピュータに対する各自
のイメージがあくまでイメージに過ぎないこと、
すなわちそれは何らかの契機によって変化する
ものであることについては、受講者の間でもあ
る程度は実感されたものと思われる。特に雑誌
広告という実例を取り上げ、一人ひとりが読解
によって検証を行ったことにより、コンピュー
タのイメージが他の様々な事象(たとえば、そ
れを利用する際の状況や利用者の人物像)との
関連によって形成されるものであることが、単
に講義や議論を行う以上に具体的に把握された
のではないかと考えられる。その意味からすれ
ば、コンピュータ活用が主題化される(されざ
るを得ない)情報教育において、スキルの獲得
以上の教育を目指す場合、このようなアプロー
チはそれなりの意義を持ちうるものと確信され
る。
ただし、今回の実践においては、コンピュー
タのイメージを形成するそれぞれの事象の背後
にある文化的・社会的文脈の考察まで踏み込む
ことはできなかった。それぞれの事象が喚起さ
せるイメージがどのような背景の元で形作られ
るものなのか、その点に関して掘り下げること
によって、たとえば「情報社会」に固有の文化
のあり方をより深く理解する可能性が生じてく
るはずである。この点については、今後の授業
改善の課題として留意される。
記号学の有効性
今回の実践においては差異の原理(「対比」
という言葉を用いて説明した)を手がかりに、
雑誌広告のクリティカルな読解を試みた。今回
の実践に限って言えば、多くの受講者が「対比」
というキーワードを頼りにすることで、テクス
トの外部にあるもの(メディアテクストの読み
取りの際に無意識のうちに参照する文脈)の存
在に気づき、それを明確に記述できたことは事
実である。さらにそこから踏み込んで、普段は
あまり意識することのない自己のコンピュータ
に対する意識を掘り下げることができたと思わ
れる回答例も少なからず見られた。時間の関係
から今回は差異の原理のみに絞り込まざるを得
なかったが、記号学の解釈の枠組みを用いるこ
とで、こうした日常的には意識されない「自己
の視野を規定する要因」に気づく可能性は確実
に高まるものと考えられる。
教師による示唆の功罪
記号学をベースに読解を行う場合、必ず事前
に記号学の枠組みそのものを教師が説明する必
要がある。この説明が一種の誘導として作用す
ることで、本来自発性がもっとも重視されるべ
き「クリティカルな判断力」を養う実践が、中
途半端なものとして終わってしまう可能性があ
る。
6.2.ではそのことの功罪について触れたが、
今回の実践を踏まえて再考するならば、やはり
ある程度の説明や示唆は必要であると考える。
今回の場合、確かに「対比」に関する説明は、
「対比を発見しろ」という示唆として教室内で
機能した面は否めない。しかしながら、意味の
発生は常にある「前提」が必要とされること、
その「前提」とは今回の場合<コンピュータに
対する暗黙の了解>であること、等をあらかじ
め仮定しつつ読み解くことにより、結果として
何名かの受講者は確実に、これまであまり意識
することのなかった事柄を明確に把握すること
ができた。自己を相対化するという主題との関
連からすれば、このような体験は非常に本質的
である。その意味で、受講者の自発性に対して
常に留意しながら行われる限り、教師による最
小限の説明や示唆はクリティカルな判断力を養
う教育においても必要であるといえる。
クリティカルな判断力の育成に向けた課題
ここまでに述べてきたように、今回の実践に
おいて、日常的な視野には入らないであろう事
柄を意識化し、そのことによって自己の日常的
な態度を相対化するという試みについては、情
報教育の中である程度行うことが可能であると
考えられるに至った。しかしながら、「クリティ
カルな判断力」を育成するという観点からは、
今回の実践の中で不十分であると感じられた点
も見いだされた。
第一に、学習の意味を受講者に十分伝えられ
たかどうかという点である。この点に関しては、
各授業の事前に教員としてのねらいを説明する
にとどまった。特に「なぜわざわざコンピュー
タのイメージの相対化を行わなければならない
のか」という点に関して、十分理解されなかっ
た部分もあったかと思われる。当初、これはあ
る程度コンピュータの実習を進め、経験を積ん
でからでないと実感できない事柄だと考えてい
た。しかしながら、本年度はコンピュータ実習
が主題となった第4回以降の授業においても少
しずつメディア・リテラシー的なアプローチの
実践を継続することにより、もう少し広範な理
解が得られたのではないかと考える。
第二に、読解の実践におけるクリティークの
深さの問題である。今回の雑誌広告では、たと
えば「若い女性の笑顔」とコンピュータとを結
びつることで、コンピュータの新鮮なイメージ
を印象づけようとしている点について、多くの
学生が指摘を行った。ただし、本当の意味でク
リティカルであるためには、その背後に暗黙の
うちに想定される対極のイメージ(たとえば
「仕事に追われる中年の男性」)との関係を掘
り下げることで、本来恣意的であるはずのこれ
らのイメージ同士の関係を必然化する文化的、
社会的文脈についても理解を促すべきであった。
また、このようなイメージの組み合わせを図ら
ずも認めてしまうことによって、広告が広告主
の意図を越えて政治的な機能を持ちうる可能性
も視野に入れる必要がある。
今回の実践においては、これらの点まで踏み
込むことができなかった。その一つの要因は時
間のなさであったが、一般教育の中でこれらの
事柄を扱う教育手法はまだ確立されていない。
したがって、この点については教育手法の問題
も含めて今後の課題となるであろう。
8.おわりに
情報教育へのメディア・リテラシー的なアプ
ローチの導入に関する提案と、その提案に従っ
て行われた大学における教育実践を報告した。
今回の実践は、情報教育の内部にいかにして情
報の生産・活用に対する内省の機会を取り込む
かという問題意識に基づいて行われたものであ
る。ややもすればコンピュータ操作のスキル習
得に偏りがちな情報教育に対する見直しの気運
がある現在、上記の観点からの教育内容の構築
は重要な課題であるものと認識する。そして、
そのような課題に答える授業実践を構想する上
で、情報教育にメディア・リテラシーの観点を
導入することには肯定的な可能性があるものと
確信する。
参考文献
1) 斎藤俊則・ 大岩元: 「日常 と 社会 から 見 た情報 「情報学」構築 に 向 けた 一試案」, 『情報処理学 会
研究報告』,CE-60-1,2001,pp.1-7
2) 武井惠雄:「情報学の構成原理としての情報行為」,
『情報処理学会研究報告』,CE-59-4,2001,pp.25-32
3) 文部省(現文部科学省): 『平成1 1 年 3 月 告 示
高等学校学習指導要領 』 . 時 事 通 信 社 ,
1999,pp.137-143
4) 鈴木 みどり 編: メディア ・ リテラシ ー を学ぶ人の
ために』,世界思想社,1997,pp.2-8
5) Masterman, L. : Teaching the Media, Comedia
Publishing Group, 1985,p.2(部分邦訳:宮崎寿子
訳: 「『 メディア を 教 える』」, 鈴木みどり編『メ
ディア ・ リテ ラシーの 現在と未来』,2001, 第2 章 ,
pp26-63)
6) Masterman: op,cit.,pp.24-25(邦訳: 宮崎 ,前掲
書,p.50)
7) 佐賀啓男: 「 メディア教育概念の変遷」 , 『メディ
ア教育研究第1号』,1998,No.1,pp.167-183
8) 三宮真智子: 「情報 に 対 する 合理的判断力 を 育て
る教育実践研究の必要性 大学で何をどう教えるべ
き か 」 , 『 日 本 教 育 工 学 会 論 文 誌 』 ,
Vol.26,No.3,2002,pp.235-243
9) 斎藤俊則: 『 メディア ・ リテラシ ー 』 , 共立出版 ,
2002,(情報がひらく新しい世界9)
10) デルコンピュータ株式会社の雑誌広告(一部抜粋),
『日経 PC21 2003年5月号』, 日経 BP 社,2003
年 5 月 1 日発行,p.55